FC2ブログ

 さて、私はここでやめることにします。もし主が望まれるなら、明日の朝、この点から続けてさらにこれに迫ることにします。この偉大な舞台・背景と共に――もし私たちがキリストの中にあるなら私たちはその中にあります――まさにこの句は神の御旨に関するこの観念を開示しているのではないでしょうか?!その神の御旨とは、キリストにおいて別の人類を持つということです。

 これが主があなたに対して、私に対して行っておられることであり、主は何かを変えつつあります。ああ、それは私たちにとってあまりにも遅々としたものであることを私は知っています。自分はその道をあまり進んでいるようには思われませんが、主は滅ぼすことと付け加えることとをしておられます。

 しかし、私たちに何が分かるでしょう?しかし、私たちに何が分かるでしょう?ああ、私はこれまでの人生で感じてきた以上に、自分自身のことをひどく感じています。もしキリストのためでなかったなら、私は今日ここにいなかったでしょう。いいえ、出て行っていたでしょう。私はここにいなかったでしょう。それはストレス、重圧、悩み、惨めさのためであり、塵の中に下って「主よ、あなたは間違いを犯しました。あなたは間違いを犯しました。私はあなたの大きな間違いです。あなたは私を決してこの地位に着けるべきではなかったのです」と述べるしかない時を過ごしてきたためです。私たちの経験は常にこうであるように思われます。しかし、ここに私たちはいます。私たちは生き残りました。生き残っただけではありません。ここにいるのです。そして、自分たちはイエス・キリストにある神の力によってここにいる、と私たちは信じています。これを私たちは確かに知っています。ですから、「これはキリストのおかげです、キリストのおかげです、私たちの人生の中におられる力強いキリストのおかげです」と私たちは言うことができます。

 さて、今朝はこれで十分です。彼が何をしておられるのか見て下さい。彼が御心に抱いたもの――御自身の冠であり目標である人類――のために彼には素晴らしい御旨があることを、どうか彼が私たちに示して下さいますように。祈りましょう……

 「主よ、私たちはあなたを願います。あなたに、私たちはあなたに懇願します。どうか私たちの理解力の目を開いて下さい。これを単なるお話や教えにはしないで下さい――それ自身が目当てとは決してしないで下さい。しかし主よ、あなたの御前で私たちをかがませてください。今回、私たちがあなたと共にどこにいるのかが真にわかるのは、ただ集会に出席することによってではないことを私たちは知っています。それは集会の背後や外で、私たちの部屋の中で、私たちの心の中でなされる祈りによります。私たちを導いて下さい、と私たちは祈ります。あなたは何に向かって働いておられるのか、そして、あなたはどうしてこのように私たちを取り扱っておられるのかというこの問題について深く考えます。ですから、私たちをあなたの恵みによって助けて下さい。主イエスの御名の中で祈ります、アーメン」。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 私は信じていますが、主は今日、御民の多くに対してそうなさっています。彼らの務めを取り去り、彼らが頼りにしてきた交わりを取り去り、物事、キリスト教的な物事――彼らの働き、彼らの宣べ伝え――さえも取り去っておられます。あなたが宣べ伝え始める時、宣べ伝えに関する幻想が生じます。年を取るにつれて、あなたはこの幻想を克服するようになります……。「主よ、あなたに宣べ伝えるつもりがないなら、私に宣べ伝えさせないで下さい」とあなたは言います。主はそのようなことをなさっておられます。ひたすら私たちを剥ぎ取り、私たちから事物を剥ぎ取り、キリスト教的なものさえも剥ぎ取っておられます。そして、主が御自身の地位に着くことになります。

 さて、真の啓示の頂点はこれではないでしょうか?!それを使徒パウロの言葉で述べると「私たち全員が……に至るまで」となります。何に至るまででしょう?ああ、翻訳者たちが正確な訳を与えていないのは何と残念なことか。彼らは「私たち全員が……神の御子を知る知識に至るまで」と述べています。いいえ!「神の御子を知る完全な知識に至るまで……身の丈の度量に至るまで……」です。誰の身の丈の度量でしょう?ひとりの人です。キリストを知る知識、キリストを知る完全な知識の頂点が私たちの到達点です。では、それは何でしょう?――人なるイエス・キリストの(こう述べるのが許されるなら)複製であるような種類の人です。ですから、主だけになる地点、キリストだけになる地点に私たちはますます近づきつつあります。

私はキリストのものです、この御名に満ち足らせて下さい。
ああ、彼についてのさらに大きくて十分な理解を
得ることができさえすれば!



オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


キリストを知る全き知識の頂点

 御存知のように、友よ、神は常に何かを目指して遡って働かれます。創造において、彼は遡って働いておられました。それを読み返して下さい。どうして新約聖書には、再生(regeneration)や和解(reconciliation)といった「再(re)」というこのささやかな接頭語で始まる言葉がこれほど多いのでしょう。みなこのささやかな接頭語「再(re)」がついています。なぜなら、彼は遡って働いておられるからです。

 事物は過ぎ去り、過ちに走り、神の道から外れました。そして、神は事物が過ちに走った点に戻りつつあります。神は通常、私たちにそうされます。では神は何から開始されたのでしょう?――世の基が据えられる前からおられた御子です。永遠の過去の協議で御子が発端、神の出発点とされました。人はみな過去のゆえに道に迷いました。「私たちはみな羊のように道に迷った」。

 神は御自身の出発点である御子に立ち返られます。キリスト教界は道に迷ってきました。そして、キリスト教界を救う唯一の道は神の出発点に立ち返ることです。御子に関する真の正しい理解に立ち返ることです。

 私は題材をただ進めることだけを望んでいるのではありません。これは私たちに適用されることになります。私は次のことを知っており、それが真実であることを知っています。すなわち、主が私たちの多くに対してなさっているのは私たちを剥ぎ取ることである、ということです。主は私たちが身に着けたものや私たちがその中に入り込んでしまっているものを私たちから剥ぎ取っておられます。主はそれらを剥ぎ取って、主イエスかさもなくば無か、という地点に私たちを導いておられます!もし主イエスで駄目なら、生きる目的は何もありません。私たちの中には「主よ、もしあなたが介入してこの場所を満たして下さらないなら、私たちを取り去って下さい。もはや生きる目的は何もありません」と主に向かって述べる境地に達した人々もいます。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 一つの国民から別の国民へ:アブラハムからキリストへ、モーセからキリストへ。一つの主権から別の主権へ:新約聖書がダビデの子孫でありダビデよりも偉大である御子でどれほど満ちているのか、私たちは知っています――御子で満ちています。しかし、それは一つの地的主権からイエス・キリストにある別の天的主権への移行を示しています。

 この移行のこれらの面に印をつけながら読み進むこともできたでしょう。もしヨハネによる福音書に対する鍵をお望みなら、ヨハネはこの福音書全体をただ一つの思想に基づいて書いたことを思い出して下さい。この福音書全体に対する鍵は、一人の人からキリストへのこの移行です。彼が引き継がれました。これが「私は……である(I am)」が頻出する理由です。これらの「私は……である(I am)」は古いものへの批判であることに気づきます。私はぶどうの木ではありませんが、「まことのぶどうの木」です。イスラエルはぶどうの木でしたが、彼がまことのぶどうの木として引き継がれました。イスラエルは偽りのぶどうの木でした――実を結びませんでした。

 さて、私はヨハネによる福音書に取りかかるつもりはありませんが、あなたにこの鍵を与えます。この別の人性がキリストのパースンにおいてマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書で導入されます。(これがそれらすべての福音書の鍵です)そこから移って、そして悲惨な十字架を通り抜けると、使徒行伝の中に入ります。あなたは何の中にいるのでしょう?ああ、使徒行伝のこの素晴らしい解放――移行、移行――の中にいるのです。悲惨な十字架のゆえにこの旧体制はことごとく何と悲惨なものになったことでしょう。そしてこの向こう側――この新しい人性――に至ったのです。主がどのようにこの古い人性に働きかけてそれを終わらせ、漸進的に今やそれをあるべき所にもたらされたのかに注目して下さい。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ


 そして、ここで一つの経綸からもう一つの経綸へのこの大いなる移行に出くわします。旧経綸は御使いたちの大いなる務めを取り入れていました。これは午前の時間を要する主題です。旧経綸における御使いたちの務めです。律法は御使いたちを通して与えられました。御使いたちはギデオンやダニエルを何度も訪れました。大天使たち、御使いたちの素晴らしい務め――しかし、ヘブル人への手紙は「御使いたちにではなく(中略)しかし」という句を解き放ちます――「ではなく、しかし」――何という変化でしょう!そしてそれに続いて、この新経綸は御使いたちの務めよりも無限に優っていることを述べています。

 そしてヘブル人への手紙の終わりに向かって進んで行くと、「あなたたちが来ているのは、火で燃えている手で触れることのできる山ではなく(中略)しかしあなたたちが来ているのは……」というこの移行に関する句の一つに出くわします――かの旧経綸から新経綸導入へのこの動きは何と巨大なことか。あなたたちの新約聖書の中には一つの内容しかありません。それは福音書の中でキリストによって導入され、使徒たちによって完遂されました。そしてヘブル人へのこの手紙の場合、この手紙全体の確固たる主題は一つの経綸からもう一つの経綸への移行です。ああ、これを再び読んで、その内容を讃えて下さい。ヘブル人へのあの手紙を読み返して下さい。その内容を讃えて下さい。「ああ、何というものの中に私たちは入れられたことでしょう」。幕屋は?「確かに」と著者は言います。「この地上にしばらくのあいだ幕屋がありました(中略)それはその時が来るまでのことでした」。「それはすべて過ぎ去りました」と彼は言います。「そして今や、手で造られたのではない、神が造られた真の幕屋に、すなわち天の幕屋に私たちは来ています」。この移行がどれほど素晴らしいか見て下さい!―― 一つの経綸からもう一つの経綸への過ぎ越しなのです。

 私は中断して問わなければなりません。ここでキリスト教界は正道を踏み外したのではないでしょうか?――

 それは依然として旧経綸にしがみついているのではないでしょうか?

 それは依然として喪服をまとっているのではないでしょうか?

 それは依然として形式や方法を伴うモーセの経綸のままではないでしょうか?

 それは解放されて天上の中に入っていないのではないでしょうか?

 これが主がここで私たちに為したいことです。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

プロフィール
カレンダー
05 | 2019/06 | 07
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ