次に人です!この御座を前にして彼の方に目を向けるのは、ほとんど恐れ多いことです。彼は尻込みしているように思われます。この対比はあまりにも著しいため、誰もあえてこの人に言及しようとしないでしょう。それでも彼はそこにいます。主の啓示・除幕の前に、この御座の前にいます。この人はひれ伏しており、滅びるばかりです。愛する人よ、この人に関する次の点に注意してください。この点は恵みの働きのまさに本質です。すなわち、この人は、それに関して自分が間違っている事柄を非難し始めることをせず、滅びるばかりなのは自分自身であることを理解し始めたのです。もし私たちが数々の点を顧みて「確かに、私は自分がこの事柄やあの事柄で間違っていたことを知っています」と言うだけなら、神の啓示の働きはこれらの事柄に関して十分だったとは言えません。このような主にふさわしい唯一の反応は、自分自身が滅びるばかりであること、滅びるばかりなのは人であることを、私たちが認めることです。もし私たちが心から真に、主御自身からの啓示を主に求めるなら、また、主の主権との御座における交わりを真に求めるなら、「どうか私たちがこの光景の中から消え去りますように」という要求についても熱心であろうではありませんか。この問題全体が意味するのは、主が入って来られるので、私たちは排除され、無に帰されるということです。また、それがみな「私はわざわいだ」という結末になることを受け入れる覚悟をするということです。

 ヨブ!神と啓示を前にして、あの素晴らしいドラマの大きな山場で、ヨブが「私の目が主を見たからです。それゆえ、私は塵と灰の中で自分自身を忌み嫌います」と述べたのを、あなたは覚えておられるでしょう。

 ペテロは主を見て、「私から離れてください、ああ、主よ、私は罪深い人です」と叫びました。

 主の御用や奉仕のどの部分に対しても、これは必要不可欠な前奏曲です。ああ!これは束の間の事柄、過ぎ去って行く啓示に関する事柄ではありません。それは内側深くに打ち込まれるので、「自分は無であり、主がすべてである」という状態が永続的なものになります。私たちは無であり、主がすべてである――どうかこれがこのメッセージの結果でありますように。私たちは全員、今、こう言えるのではないでしょうか?ここにいる私たちの中には、こう言えない人は一人もいないと思います。私たちはみな、心から、深い誠実さをもって、「私たちは無であり、主はすべてです」と言うことができます。


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御座

 これと関係する第二の点は御座です。「御座に座しておられる」。「私は御座に座しておられる、高く上げられた主を見た」。これは、御自分の民の使命に関する神の絶対的主権です。これがこの個所の要点だと思います。この個所が示しているのは大能者である主だけではありません――私たちは皆これを理解・認識しています――それだけでなく、ここのこれらの御言葉により、ある偉大な使命が今や水平線上に現れるのがわかります。主の御業を目の当たりにするのです。

 ここでは、この人が神の家の中で任務と使命を受けます。彼は、高く上げられてその裾が家全体を満たしている主を見る必要があります。しかし、神の主権がそれと関係を持たなければなりません。この御座の主権がこの人の務めの背後でどのように機能しているのかがわかります。彼は諸々の支配や国々をバラバラに引き裂き始めます。章に次ぐ章で、国々や諸々の王国に対して戦い始めます。全世界が裁かれます。そして、ここで御座がこの務めと関係するようになります。愛する人よ、私たちもこの御座との関係の中に入らなければなりません。また、この御座が私たちの人生や務めの中に入って来なければなりません。それは、それを有効なものとするためです。主権者たち、権力者たち、暗闇の世の支配者たちが、新たな方法で、この御座の衝撃力を感じるようにならなければなりません。どうか主が御自身を私たちに啓示して下さり、次に、私たちをこの御座との関係の中にもたらして下さいますように。それは神聖なすべての御旨――主御自身と御座――のためです。


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聖書朗読:イザヤ六・一~八

宮を占有される主

 よく見ると、これらの節の際立った点は、第一に、主、高く上げられてその裾が宮を満たしている主御自身であることがわかります。そして、愛する人よ、私たちの心はこれに大いに同意・肯定して、「そうです、そこからすべてが始まるのです」と言います。すべては、高く上げられてその裾が宮を満たしている主御自身と共に、そこから始まります。そうでない限り、私たちは何も持つことができません。私たちは、最初からずっと、これを主要な要素として視野の中に保たなければなりません。まず、主御自身を見なければなりません。私たち全員が愛している詩歌に照らして、「喜びではなく、平安ではなく、祝福でさえなく、主御自身……」と述べることが、今やほとんど普通になっています。

 主御自身、高く上げられてその裾が宮を満たしている主御自身。主が主の宮を満たしており、そこには主御自身以外のもののための余地はありません。主が占有しておられ、その裾が宮を満たしています。主御自身――そこから私たちは始め、そこで私たちは終わらなければなりません。確かに近頃、何ものにもまして私たちが叫び求めているのは、私たちが追い求めている主、高く上げられた主、主にその地位が与えられることです。

 私たちは主を高く上げることはできません。私たちは主を高く据えることはできません。私たちは主の裾を宮に満たすことはできません。しかし、それが主の地位であることを承認することはできます。そして、私たちに対して啓示されるあらゆる方法で、それに自分を明け渡して、「そうです、そうなりますように」と言うことはできます――主にその地位が与えられますように、と言うことはできます。そして、主にその地位が与えられる時、主がすべてを満たされます。そして、他の物や者のための余地はなくなります。ああ!主がそれを霊的生活の中で、今日の生活のあらゆる点やあらゆる文脈の中で、私たちに真に経験させて下さるなら、この黙想には価値があったことになります。あまりにも多くの他の事柄、関心、配慮、要素、性格等々があって、主の地位を侵害し、主の前に割り込んでいます。あの高慢な心が、あまりにも多くの方法で姿を見せます。それは本質的・原則的に、常に自分を高く上げて主の地位を占めようとします。それは、「私は天に昇ろう」……「私は私の座を雲の上に上げよう」……「私はいと高き方と等しくなろう」と言った者の心の中で生じました。それは自己実現の高慢の原則に他なりません。高慢な心は常に神の前に割り込みます。そして、神にその地位を決して与えません。主は私たちの心を探らなければなりません。それはまさに、主にその地位を与えていないもの、主の栄光の邪魔をしているものを啓示するためです。

 愛する人よ、これはそこで始まり、そこで終わります。「主がその地位を得られますように」が私たちの祈りでしょうか?私たちが諸々の道――それらの道では、主がその地位を得ておられないとは、到底考えることも、想像することもできません――を見るようになる時、主は私たちに関してはそれを得られるでしょう。ああ、この欺きに満ちた心。私たちの心は欺きに満ちています。それに疑いの余地はありません。私たちの心がまさに欺きに満ちていることは次の事実からわかります。すなわち、「自分は主に徹底的に明け渡した」と私たちが考える時、そこに自分の明け渡しを誇る思いがあるのです。私たちの謙遜は誇りや自慢を帯びています。多くの事例でこれはどれほど真実であることでしょう。彼らは良い始まりをし、大きな代価を払いました。主のために堅く立ち、それから神に用いられるようになりました。そのため、無自覚・無意識のうちに、神の祝福のゆえに高慢になってしまいました。そして、本物の霊の務めは裏口からそっと出て行ってしまいました。彼らは別の意味で「有能」になったからです。それでも、「自分は前と全く同じである」と彼らは主張しようとします。私たちをこの光景の外に保つには主の強力な啓示が必要です。それはこういう結果になります。高く上げられてその裾が宮を満たしている主を、聖霊が炎の中で真に私たちに示して下さる時はじめて、私たちは救われます。神のすべての御旨・権益のために、このような主の啓示が必要です。主は御霊の啓示によって私たちに臨まなければなりません。人の言葉や、主に対する誉め言葉――それは神についての教理に関しては完全に正しいものかもしれません――によってではなく、聖霊のあの御業によってです。聖霊の御業は、私たちの前に神を生ける者とするので、私たちはひれ伏します。高く上げられて、その裾が宮を満たしている主。これが第一の、すべてを含む点です。


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真の基礎とその結果

 最後に繰り返し強調して言いたいのは次のことです。まず第一に、自分たちがキリストを命として、自分の命として受け入れたことが確かでなければなりません。「神の無代価の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠の命です」。この賜物を受けたら次に、前進しつつ、「永遠の命を握りなさい」という勧めを思い出す必要があります。なぜなら、すべてがとても暗くて恐ろしい耐え難いものになって、死を受け入れる方が容易なことも時々あるからです。これは文字通り本当のことです。主の民の人生の中には、サタンが死ぬことを提案する時もあります。そのような時、サタンは、この人生に終止符を打つこと、すべてが終わったことを受け入れること、「なにもかもおしまいだ!」と言うこと、そして、「絶望的状況になってしまったので、この状況の中から自分たちを全く取り去って下さい」と主に求めることを彼らに願わせます。時々、あなたもそのような状況になります。私が述べていることをあなたが理解しているのかどうか、私にはわかりません。サタンが断固として立ちはだかります。サタンは彼らを抑圧して、彼らが死を受け入れることを望みます。こういうわけで、何度も何度も私たちは信仰を行使して命を握らなければなりません。そして、私たちの姿勢は命に向かう姿勢、命を握る姿勢、命の法則に応じる姿勢、この命と結びついているものと共に進み続ける姿勢でなければなりません。この命は私たちに、その継続的成長のすべての段階を通らせます。私たちの内にあるこの命、私たちの内におられるキリストは、栄光の望みであるだけでなく、王座の栄光の実現でもあることがわかるようになるでしょう。あなたと私の中には、私たちを王座へともたらすように定められているものがあります。ただしこれは、私たちがそうしてもらうならばの話です。

 どうか主が、キリスト・イエスにある命の霊の法則に従うすべを私たちに教えて下さいますように。


「キリスト・イエスにある命の霊の法則」 完


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苦難によって完成される霊的備え

 しかし次に、神がヨセフの苦難の中におられたことがわかります。神の主権の御手の下で苦難が必要だったことがわかります。苦難は王座のために彼を備えるものだったのです。もし苦しむなら治めるようになります。これはたんなる苦難の事実のためではなく、苦難が私たちの内で成し遂げることのためです。ヨセフの苦難は偉大なことを成し遂げて、王座のために彼を整えたのです。

 彼は仕える方法を学ばなければなりませんでした。なぜなら、奉仕が王座のしるしだからです。遂に彼が王座に達した時、それは彼の兄弟たちに仕えることでした。私たちの永遠の運命は無為な余暇の生活である、と思わないようにしましょう。その素晴らしい点は奉仕です。「彼の僕たちは彼に仕える」。彼は奉仕を学ばなければならず、厳しい学校でそれを学びました。ポティファルの家は、僕になることをそこでヨセフが学んだ学校でした。彼の学校はとても厳しい困難な学校でした――エジプト人の家の僕でした。神の皇子の子供、イスラエルが心を寄せる息子は、ポティファルの家での奉仕によって服従を学びました。すべて空っぽにされました。それは、治める方法、高ぶらずに富を持つ方法を、彼が学ぶためでした。満たされるために空にされ、高く上げられるために低くされました。高く上げられた状態で奉仕するために、低くされた状態で奉仕しました。この諸々の苦難は何事かを成し遂げつつありました。ヨセフの苦難をすべて網羅することはできませんが、諸々の苦難が臨んだのは王座に至る道としてだったのです。

 ですから、ヨセフは真に霊的な教会とその宿命とを表しています。その宿命とは、キリストと共に統治することです。当面のあいだ、この統治する地位への小径は、拒絶、苦難、拒否、屈辱の小径です。そしてそのほとんどは、霊的でない神の民の間にある肉的要素によります。

 さて、これ以上何を述べることができるでしょう?王座に達することは目標に達することです。命の道、命の働きがわかります。


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