われわれは党派の奴隷である

 われわれの場合はましなのだろうか?そんなことはほとんどない。理論的には、われわれは政治的に自由である。実際には、われわれは党派、党員集会、実力者の奴隷である。私の政治的信条を形成する権利を党大会の手に渡す瞬間、私はもはや絶対的に自由ではなくなる。道徳や宗教に関する私の意見、私の信念を他の人々から人づてに受け取る時、彼らが今日の人々、宗教改革期の人々、初代教会公会議の人々であろうとなかろうと、私はもはや自由ではなくなる。ある習慣が私の生活を支配するのを許す時、私はもはや自由ではなくなる。高ぶり、虚栄、野心、享楽が私の生活を支配するのを許す時、私は奴隷の中で最も卑しい者になる。私は自分では罪をやめないしやめることもできないが、まさにこの事実が私は奴隷であると宣告する。イエス・キリストは奴隷たちの世に来て下さった。

解放者キリスト

 興味深いことに、地上における彼の使命に関する彼の最初の公式宣言は、生活のまさにこの点に触れるものだった。ナザレのシナゴーグの中で、預言者イザヤの書が彼に手渡された。そして、「主の霊が私の上におられる。なぜなら、彼は私に油を塗って、虜にされている者たちに解放を(中略)告げるようにされたからである」と記されている個所を彼は見つけられた。

 彼は罪に対するわれわれの隷属から開始される。そしてここで彼は最初の困難に遭遇される。彼が解放しようとしている人は奴隷であるだけでなく、有罪宣告を受けた奴隷でもあるのである。その人は売り飛ばされる奴隷だが、首には絞首索が巻かれている。誰がこの人を贖うのか?否、むしろ、「誰がこの人を贖えるのか?」と言った方がいいだろう。その人の兄弟ではない。なぜなら、彼もまた首に絞首索が巻かれている奴隷だからである。「この奴隷、この人のための代価は何か?」。どの人に対しても一つの代価しかない。

 この奴隷たちを贖おうとする者は誰でも、彼らの代わりに死ななければならない。明らかに、一度も罪を犯したことのない者、完全に自由な者だけが、身代わりとして受け入れてもらえる。これらの必要条件を満たした存在は、これまでひとりしか現れなかった――すなわち、イエス・キリストである。そして、まさにこの代価を支払うために、イエス・キリストはこの地上にやって来られたのである。彼自身の命、想像を絶する彼自身の苦難という犠牲を払って、彼は聖なる律法の要求を最後まで満たし、罪の奴隷たちを死から贖われる。

 彼らは律法の呪いから自由になったのか?然り。罪の習慣からはどうか?否である。

 次に、この偉大な贖いの諸々の過程が始まる。これらの過程は内なる生活の領域の中で進行する。その目的は性格を変容させ、罪の支配から完全に解放することである。


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御言葉:「ですから子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは確かに自由なのです。」ヨハ八・三六

 現在人々の間に最も広まっている一般的な幻想は、自分たちは自由であるという考えである。隷属や束縛に関する非難ほど、迅速かつ熱烈な憤りを引き起こすものはない。自由な人は一人もいない。神に感謝すべきことに、数百万の人が解放の過程の中にあるが、まだ一人として完全には解放されていない。

 パウロはローマの隊長に、自分は自由人に生まれたと告げた。彼がこの言葉を用いた限られた意味においては、それは真実だった。パウロはローマ市民だった。しかし、他のあらゆる重要な意味においては、この言葉は真実ではなかった。パウロ自身が真っ先にこれに同意するであろう。

 私たち全員と同じように、パウロは諸々の束縛を受け継いだ。何世紀もの間、あの神秘的な力である遺伝が、黙々と目にとまらぬように、彼に対する諸々の束縛を備えてきた――霊、魂、体に対する諸々の束縛を備えてきた。この世に生まれるどの魂も、ある見えざる網の中へと生まれ落ちる。その網は、何世紀にもわたって、その魂のために編まれてきたものである。その網の目とは民族的性向、民族的慣習、家族的習慣、罪、公的宗教、そして言い伝えである。

 この節の御言葉を語った時、キリストが語りかけておられた人々のことを考えてみよ。「私たちはアブラハムの子孫であって、決して誰の奴隷にもなったことはありません」。われわれがわれわれの自由について誇る時にそうするように、彼らは十分誠実に語った。しかし、その当時、彼らは政治的・知的・宗教的束縛の中にあったのである。

 政治的に、彼らはカエサルからヘロデやピラトにまで至る独裁者たちの一団の束縛下にあった。道徳的に、彼らは民族的高ぶり、偏見、無知、罪、自己意志の奴隷だった。宗教的に、彼らは伝統主義、偏見、形式主義の奴隷だった。


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平安と勝利の状態にある

 ローマ七章から八章に移ると、ローマ七章のこの哀れな人が平安と勝利の状態にあることがわかる。今、彼の証しはいかなるものか?「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。

 新しい決意、新しい習慣ではないし、いっそう深く自己にしがみつくことや、いっそう祈ることでもない。ローマ七章の苦悩の中にある人が祈らないとでもあなたは思うのか?使徒パウロがローマ七章の中にあった時、きっと彼は昼も夜も神の前にひれ伏して祈ったにちがいない。もはや祈りや、あなたや私がなしうることや、パウロがなしえたことでもなく、神がなしうることである。

救済策の存在

 内側からさらに努めることではなく、外側からの何かを内側に注入されること――これがパウロの言わんとしていることである。そして、「ああ、私は何と哀れな人でしょう」と言いかけている時でも、霊的敗北のまさにその苦悩の中から、彼は自分の顔を上げて勝利の証しをする。なぜなら、彼は秘訣を見い出したからである。彼は言う、「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」(ロマ八・二)と。

 それゆえ、この人は後に、「私にとって生きることはキリストです」と書き記すことができた。あなたや私よりも彼のことを親密に知っていたピリピ人にそう書き送ることができた。「いま私が肉体にあって生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます」と彼は、試練と試みの下にある彼を見ていたこれらのガラテヤ人に言うことができた。「私の努力、私の決意、私の誓いによってではなく、キリスト・イエスにある命の霊の力、権威、法則によります」。

 彼は意志の道筋では敗北したが、自分の内におられる御霊の力によって勝利する。超人的基準は超人的力によって達成される。パウロはその力を握った。それゆえ、勝利のローマ八章がある。それを神のすべての子らは経験することができる――絶えざる勝利、平安、力の生活を経験できるのである。


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とても実際的な問い

 「善いことをする意志は私にあるのですが、それをどう行えばいいのかが分かりません」と言うことで、パウロは何を言わんとしているのか?

 私は自分のクリスチャン生活の間ずっと、「クリスチャンはローマ七章の中に生きてはならない」という意見を耳にしてきた。やれやれ、彼らの十人中九人がローマ七章に至ってくれればよいのだが。ローマ七章のこの人は霊的事柄に無関心な者ではない。彼は、自分の生活がキリストの生活のようではないという理由で、その心が砕けて、その存在が苦悩の中にある人である!

 ローマ七章のこの人は、神の御子の血でまったく赤く染まっている人である。自分が恐ろしい現実的な何かと格闘していることを彼は知っていた。そして、自分のための解決策を神が持っておられるとするなら、彼はそれを得ないわけにはいかなかった。私は問う。善を行う意志と決意はあるのに敗北してしまうこの人は、何を必要としているのか?

 彼にはさらなる道徳規範が必要なのか?さらに高い基準が必要なのか?もちろん、この哀れな人は今、自分が行っているものよりも善いものを知っている。そして、まさにここに道徳的説教の弱点がある。それはこの哀れな罪人に向かって「善人たれ」と絶えず告げるが、善人になる方法については決して告げない。そして今日の講壇はほとんど、人々に「善人たれ」とは告げるがその方法については告げない。

 われわれは彼のもとに十戒を携えて行って言う、「おや、パウロよ。あなたにとって何が問題なのか私にはわかりません。善を行えないとあなたは述べていますが、あなたは取り乱しているように思われます。ここに十戒があります」。そこで彼は言う、「しかし私は十戒を知っています。若い時からずっと十戒については知っていました。私の内なる人は十戒を喜んでいますが、私には十戒さえも守れないのです」。然り、律法は彼を助けられない。律法は「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」と告げるが、人の力や能力に何も加えない。一切何も加えない。それでは、彼には何が必要なのか?

道徳規範ではなく、力である

 この人には、その生活の中に超人的霊性を実現せしめる超人的力が必要である。さて、誰かがキリスト教に反対して「キリスト教の道徳的要求は人の性質にとって高すぎる」と言う時、その人はまさにこの真理を見い出し始めたのである。クリスチャンの十人中八人が決して見い出さない一つの真理を見い出し始めたのである。それはもともと人の性質にとって高すぎるものなのである。それは人の手が決して届かないところに置かれている。助けなき人の能力では決して届かないところに置かれている。もしそれがすべてなら、福音は聖人向けのものになっていただろうし、とにかく罪人にとっては絶望の使信となっていただろう。しかし、それがすべてではない。

 この超人的要求と共に、超人的力も用意されているのである。そして、パウロはそれを握った。彼はローマ七章の中にとどまらなかった。なぜなら、その意志が目覚めてその最高の力に達し、それでも事をなしえない時、その人は自己の終わりに達っしたからである。


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偽善者

 しかし、そうすることはあなたを憎しみに満ちたパリサイ人にするだけである。それは柔和であることではない。イエス・キリストが何よりも憎んでおられるのはパリサイ主義である。これは、彼にはどうしようもない唯一のものである。当時、パリサイ人に対して彼が唯一言えた言葉は、「あなたたちは禍である」だった。

 彼には彼らのための使信は何もなかった。彼の福音の中にはパリサイ人のためのものは何もなかった。否、パウロはパリサイ主義に戻ろうとしているのではない。

 彼が「善」について語った時、パウロの心の奥底には、あの避けがたい要求があったのである。その要求は、彼の新しい性質と新しい命の促しとによって彼の上に課せられたものであり、「自己がいかなる形で現れたとしても、自己に対して勝利しなければならない」というものだった。

 今、キリストのような生活として高く上げられた一つの水準に直面して、一つの深刻な危険が生じる。

深刻な危険

 この危険がパウロにあったにちがいない。彼はそれに抵抗して、それについて神に激しく叫ばなければならなかったと、私は確信している。その危険とは、つまり、キリストの標準は高すぎると述べたり考えたりする危険である。それがそこに置かれているのは、それに到達するためではなく、われわれが渇望すべき理想としてである、と述べたり考えたりする危険である。それは善いものであることをわれわれは同意しなければならないが、肉がそれに到達すると期待するのは別の問題である。

 さて、ここに一人の人がいた。彼は何とかしてそのような種類の生活を送ることを志しており、それが実現するまで決して諦めなかった。

 ご存じの通り、「矢で月を狙っても月には届かないが、矢で納屋を狙うなら矢はそれよりも高く飛んで行く」という諺がある。

 パウロはそのような貧弱な詭弁によって決してくじけない。私の友よ、あなたや私ならくじけているだろう。

 さて、私はとても実際的な問いに移ることにしたい。


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