あなたは動き回って聖徒たちを慰め励まし、主の子供たちのためにあらゆる種類の親切を施すのに用いられ、祝福されるかもしれません。あなたはそれが実際に霊的な増し加わり、キリストの増し加わりにつながるものであり、神の目的に導くものであると確信しているでしょうか?それは助けになり、祝福になるかもしれませんが、神の家の実際的建造についてはどうでしょうか?慰めと励ましと助けを与える私たちの務めにおいて、私たちは霊的増し加わりを分与できなければなりません。踏み段の上にいる足萎えの犬を助けるだけではなりません。すべての行動には目標がなければなりません。その目標とは、すなわち神の家です。

 務めや奉仕の形式がどうであれ、すべての奉仕は、神の観点から見ると、神の家と関係しています。これがヤコブの事例で明らかにされています。結局のところ、奉仕とは何でしょう?幼子は、全く良い動機で、全く純真な気持ちから、母親を助けるために多くのことをするかもしれません。母親はもちろんとても忍耐強く、子供を罰したりしません。子供の動機は良いこと、本当に助けるつもりでいることを、母親はよくわかっています。しかし、何と気の毒な母親!時々、母親が「もちろん、娘は私を助けようとしています。しかし、娘は少しもわかっていないのです。自分のせいで私の仕事がどれだけ増えるのか、自分の後で私がどれほど片付けなければばらばいのか、結局のところ実際には、少しも助けになっていないということを」と言うのを耳にします。子供たちの場合はそれでも構いません。奉仕の問題について実際に考える時、私たちはこれをどう解決するのでしょう?確かに言えるのは、実際の現実の奉仕は自分の目的を実現するものだということです。ですから、このように貢献してくれるすべての人に、私たちは「今、あなたたちは本当に助けになっています。今に、私たちは目的地に到達するでしょう」と言います。

 神の目的は何でしょう?神の御心は何に注がれているのでしょう?神の教会です。主イエスは教会を愛して、教会のためにご自身をお与えになりました。私たちがラケルについての節を読んだのはそのためです。すぐにこの点に戻って来ることにします。教会を確保することが真の奉仕です。そうです、教会はキリストのからだであり、神に対する真の奉仕は教会を確保し、教会による神の全き御旨を確保することです。これが神に対する真の奉仕です。素敵で素晴らしい有益なものではあるものの、実際には決して神の御旨に至らず、実際には御心の御旨に仕えていない、他の無関係な多くのものではありません。神に関する限り、命が働くのはこの道によります。

 命の御霊の法則が働くのは、私たちが神の御旨、神の目的、神の御思いと積極的に同調する時です。そして、それらはみな神の教会に関するものです。私たちはアブラハムの信仰がイサクの子たる身分という結果になるのを見ました。そして今、ヤコブが子たる身分を得て、それを受け継ぎます。ヤコブにおいて私たちは奉仕における子たる身分の真の精神を見ます。この精神は、御霊にかなう教会以外の何物にも決して真に満足することはできません。


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神の家と不可分な奉仕

 この二つは同行することがわかります。主は、「起きてベテルへ行き、そこに住みなさい」と言われました。ヤコブは決してベテルに住むことができませんでした。彼は逃れてベテルへ行き、ベテルは確固たる事実になりました。ベテルはそこにあり、神の家はそこにありましたが、ヤコブはそこに住めませんでした。なぜなら、服従の立場に達しない限り、誰も神の家に住めないからです。ですから、彼は進み続けて、神の家の基本的学課を学びました。その時、神は「起きてベテルへ行き、そこに住みなさい」と言われました。彼はあの転機に直面しなければなりませんでした。その転機で自己の力は尽きて砕かれ、彼は弱くなりました。しかしこの転機により神が彼の力となりました――神の皇子となったのです。こうして彼は神の家に相応しい者とされました。これはみな一つながりであることがわかります。神の家は神聖な奉仕の目的であり領域です。

 さて、私がこれまでずっと正しいことを述べてきたとするなら、私はこのようなことを述べてきたのです。これについて私はあなたたちに課題を出したいと思います。もしできるものなら、神の家と関係していない神への奉仕が何かあるのかを私に示して、聖書から証明して下さい。神への奉仕はみな、神の家と結びついており、それと不可分です。旧約聖書はこれに満ちています。新約聖書はこれを強調しています。キリストのからだである教会は、神の民のすべての奉仕の目的及び領域であり、それから離れていかなる奉仕もありません。ああ、主の民が奉仕の目的を目に留めていれば。彼らは、神の家との関連性を自覚せずに多くの奉仕を抱えています。あなたは特に魂を勝ち取るという道筋に沿って主に奉仕するよう召されるかもしれませんが、覚えておかなければなりません。このような奉仕は神の家と関係しているのです。もしあなたがこれを自己目的化してしまうなら、あなたはそれを矮小化し、制限して、その意図された目的をまったく見失ってしまいます。ああ、神の全き御旨という結果に至らない伝道のための大きな取り組みの悲劇!魂が救われても、ほったらかしです。彼らは福音宣教団の中に入れられますが、それらは新約聖書に見られるような地方教会では決してありません。そして、これらの福音宣教団の中で二十年、三十年過ごし、五十年過ごすことすらありますが、この聖徒たちには救われた時に持っていた知識よりも豊かな知識がないことがわかります。彼らは何年も前に救われたのに、その時から一インチも進んでいません。このような聖徒たちが世界中のこれらの宣教団で群れを成しています。彼らは喜んでいます。救いを喜んでいる救われた魂にあなたは出会います。しかし、そこにはある悲劇があります。「ああ、私は何年も前にムーディーの下で救われました。私は今も主にあって依然として喜んでいます」。これが多くの人々の典型的立場です。この証しがなされる時、それはこれらの人々を代弁しています。もちろん、主をあなたの救い主として知ること、そして救いを喜ぶことは、大いに結構なことです。私はそれに何も反対しません。しかし、それ自体が目的となっており、それ以上決して進まないのです。これはどうしてでしょう?教会に一度も目を留めていなかったからです。私がいま述べているのは「教会通い」や、いわゆる「教会」と称されている特定の場所にいる会衆のことではありません。あなたは私の述べていることがお分かりでしょう。私が述べているのは神の家についての神の全き御旨、キリストのからだである教会についてであり、これには特に使徒パウロを通して与えられた啓示――キリストの霊的からだに関して開示された一大奥義と、神の御旨におけるその永遠の運命――のすべての意義が伴います。神の御思いにおいては、すべての奉仕は教会、神の家との関係を自覚しつつなされなければなりません。


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奉仕の基礎

 さて、三番目の面から始めることにします。ヤコブについて熟考する時、私たちに強い印象を与える彼の特徴は、その極めて活発な性質だと思います。知性、頭脳、機知の活発さ、意志の活発さ、取り引きや執行における活発さだと思います。活発に常に警戒しており、常に行動しています。常に好機や機会を窺っています。彼の生涯はまさに活動の生涯です。にもかかわらず、彼は高遠なものに目を留めています。そうです、神の事柄に目を留めています。もしそうでなければ、ヤコブには救いとなる特徴が何も見あたりません。彼は神聖な事柄の卓越した価値を認識していました。それゆえ、彼はその地位を得たのであり、それに基づいて神は働くことができました。これは、神の働きの基礎となるものが、もし人の中に何かあるとするならばの話です。この生得権――彼はその性質、範囲を理解していました。その意義、それが自分をどこに導くのかを知っていました。彼は神聖な事柄を重んじる価値観を持っていましたが、彼の兄エサウはそれを持っていませんでした。彼がベテルにやって来て、そこで夢を見て、朝起きた時、「確かに神はこの場所におられます(中略)この場所は何と恐ろしいものでしょう」と彼は言いました。そして、彼は夢を実際的な形で表現し、柱を立ててそれに油を塗り、その場所の名をベテル、神の家と呼びました。

 ヤコブと共に進み続けるとき、厭うべきものがたくさんあるにもかかわらず、彼の生涯における大きな一歩はどれも、神の事柄に対する認識、霊的識別という印を帯びていることがわかります。彼の心は正しい方向に向かっています。彼の考えは正しいものでした。問題は彼の知性と彼の意志にありました。目的は正しいものでしたが、それに到達しようとした道がことごとく間違っていました。このようにヤコブを分析するなら、間もなく、命と死というこの問題における彼の意義に到達するでしょう。覚えておられると思いますが、彼は自分の機知や狡賢さによって祝福の権利を獲得しました――確かにそうなのですが、彼の霊的知覚という事実を見落としてはなりません――それにもかかわらず、この権利を獲得するのに用いたものが徹底的に対処されて終わらされるまで、彼は決してこの祝福に与らなかったのです。祝福の道の中にあることと、心が神の目的と神の最高の御旨の方向に向かっていることとは、まったく別のことです。その価値を認識してその道に一歩を踏み出してから、それに到達するまでの間には、除き去られるべきものがたくさんあるかもしれません。私たちが見てきたものと密接に関係している命に到達できるようになるには、その前に死の働きが大いに必要なことが判明するかもしれません。私たちは命を見て、それに向かって手を差し伸べ、それを得ようと奮闘し、それに到達するために自分の人間的な力をすべて傾けて最善を尽くしますが、決して到達できません。私たちに対する神の御旨であるものに到達するには、その前に何かが私たちの中になされなければなりません。私たちの中の「ヤコブ」が対処されなければならないのです。それは、私たちが「イスラエル」の地位に着くためです。神の事柄にまつわるあの自己の力、あの機知、あの自己の能力は屠られなければなりません。そして、神の御旨に達することができるのはただ神の力のみによること、神の御旨を成就するための能力は私たちの中にはなく、ただ神の内にのみあることが、自分にとって完全に明らかになる地点、これを他のなにものにもまして理解する地点に、私たちは達しなければなりません。

 さて次に、命の法則の作用としてただちに生じるもの、奉仕の第一の法則がわかります。なぜなら、これをヤコブの活動や力は表しているからです。働き、奉仕、行動、どれも神聖な事柄が目的です。奉仕の第一の法則は従順です。ヤコブの場合に明らかな点があるとするなら、それはこれです。他方、彼は他の誰よりも行動の人、活動の人、奉仕の人として傑出しています。彼はラバンのために七年間の二つの期間のあいだ奉仕しました。この奉仕には彼の人生のかなりの時間がかかりました。彼は常に行動している人であり、彼の物語の最初から活動的です。そうです、他の事柄と同じように明らかな点とは、従順はヤコブが学ばなければならない学課だったということです。これは聖書に記されている他の事柄と同じように理解するのが簡単です。彼の生涯の一大転機――この転機ではすべてが神の御旨にしたがって展開しました――は、神の指の接触の下で彼が遂に従順の立場を取った時でした。これが起きない限り、彼はベテルに戻ってそこに住むことはできなかったのです。


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聖書朗読:創世記二八・一六~一七、一九/創世記三一・一三;三五・一、六~七/二九・一五~一八/コロサイ一・二四

 さて、キリスト・イエスにある命の御霊の法則のこの働きの六番目に来ることにします。私たちはヤコブに導かれます。命の法則の働きの別のさらに進んだ面を見ることにします。というのは、この先わかると思いますが、これらの段階の一つ一つは、前の段階よりも進んだものだからです。私たちは前に向かって進んでいるところであり、神の御旨に至りつつあります。私たちは目標を見ています。豊かな命が私たちの前にあります。そして、私たちはこの継続的な段階によって豊かな命に至ります。この各段階は私たちをいっそう目標に近づけます。各段階それ自体がその豊かさを増し加えるものです。ですから、この命の問題において、ヤコブによって示されているこのさらなる発展がいかなるものなのかを、私たちは見なければなりません。

 ヤコブの事例では、他の事例よりもいっそう明らかに際立っている三つの点があります。第一は生得権、第二はベテルあるいは神の家、第三は奉仕です。この三つの本質は実際には一つです。一つのことの三つの相です。生得権は祝福です。根本的な祝福、最高の祝福、第一の祝福です。神の家――もしくは新約聖書の名称を用いると神の教会――は至高の祝福を得るものであり、この祝福は卓越性を意味します。これがヤコブにどう作用したのか、この生得権が彼にとって何を意味したのかに注意して下さい。父親から祝福を意味する言葉を得ただけではありませんし、あるものを得ただけでもありません。この祝福によって彼は第一位に置かれたのです。ですから、兄が弟に仕えました。この祝福は彼を卓越した者にしました。神の家、キリストのからだである教会は、このために選ばれています。「ヤコブを私は選んだ」「ヤコブを私は愛した」。奉仕は常に神の家と関係しています。ですから、ここには一つのことの三つの面があります。


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 愛する人よ、ここに魂や魂の命の素晴らしい従順、魂の命、自己の命の、神の御旨への素晴らしい従順が表されています。「私から命を奪う人は誰もいません。私が自分から命を捨てるのです」と言われた方に耳を傾けて下さい。そして、このように語られた方は弟子たちの方に向いて、「自分の魂の命を救う者はそれを失い、私のために自分の魂の命を失う者はそれを見いだします」と言われました。これがイサクです。これが子たる身分です。ああ、子たる身分、これは何という明け渡し、何という従順でしょう!何と小羊に似ていることでしょう!「神ご自身が小羊を備えて下さるのです」。

 子たる身分が自分の中に増し加わっているのかどうか、神の御子があなたの中で成長しているのかどうかを知りたいでしょうか?あなたの明け渡しと、憤り・抵抗・自己の意志の減少・試練における苦々しさの減少が、その証拠です。自己主張、自己利益、自己本位、自己義認、自己憐憫といった、あらゆる形の自己が表れが減ること、このようなものがことごとく減ることが子たる身分の証拠です。たとえ試練が神ご自身の子供たち、アブラハムを通してやって来たとしても、神の御手に服することが、子たる身分の証拠です。あなたは神の敵ではない者の手によって屠られることになるかもしれません。逆境や試練の下にあるとき、屠られ、断ち切られつつあるとき、刀の下にあるとき、不平を言ったり、反抗したり、理屈をこねたりせずに、神の御手に服すること、これが子たる身分です。「わが子よ、主の訓練を軽んじてはならない。主に責められる時、弱り果ててはならない」(ヘブ一二・五)。「神はあなたを息子として扱っておられるのです」。「私たちは私たちの霊の父に服さないで」――そして死ぬのでしょうか?いいえ、決して!それは神の御旨ではありません。神の御旨は「生きる」ことです!ああ、神の訓練の御手の下にあるとき、生き延びるとは思いもよりません。確かにこれで終わりです!いいえ!――「生きる」のです!神がこれを見守って下さいます。これが子たる身分の道です。これが命の道です。さしあたってこれで私は満足することにします。命は子たる身分の路線に沿って自然に働くのであり、子たる身分はそういうものなのです。


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