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ヘブル人への手紙をもう一度見ることにしましょう。この書は、全嗣業は子たる身分に関して与えられている、と私たちに告げます。御父の豊かさが子たる身分の中に含まれています。もしかすると、この地上では私たちはあまり多くのものを持たないかもしれません。確かに、主イエスは地上の持ち物に関してあまり多く持っていませんでしたが、「私の父の家には多くの住まいがあります」と言うことができました。これは何と豊かな家でしょう!自分が万物の相続者であることを彼は御存知でした。この嗣業の中には何が含まれているのでしょう?パウロはコロサイ人に、「彼の中に神格の全豊満が肉体の形で宿っています」と書き送っています。これは私たちにとって何を意味するのでしょう?まさに、「彼にあって私たちは満ち溢れている」ということです。

コロサイ一章は、この宇宙の全豊満は神の愛する御子であるキリストの中で、キリストのために創造された、と私たちに告げます。また二章では、彼にあって私たちが持つ地位を私たちは見ます。子たちは御子の豊かさに与ります。今や、私たちはその前味わいをすることができます。なぜなら、私たちは彼の豊かさから受けて、恵みの上にさらに恵みを受けるからです。「今、あなたたちは彼を見ていないけれども信じており、言い尽くせない喜びをもって喜んで、栄光に満ちています」。この栄光とは何でしょう?それは彼の出現の日です。来るべき栄光の一部が、今、私たちの心を照らしています。私たちは彼を信じているからです。信仰は将来の栄光を現在の享受とします。天におられるキリストを信じる信仰は、私たちの心に喜びをもたらします。栄光の中におられるキリストとのあの合一から、彼が御父と一つであるように私たちも彼と一つであることにより、私たちは自分の力を引き出します。彼から発する、彼との私たちの交わりにより、彼の豊かさが私たちに流れ込みます。

私たちの主であるイエス・キリストにより私たちは神の子たちであることを知るのは、何という特権・喜びでしょう。私たちは、御父が御子に与えられた栄光の共同相続人になったのです!子たる身分を知る知識は力に満ちています。私たちは神の子たちである、という事実を常に意識しつつ生きようではありませんか。

「見よ、私たちが神の子供たちと呼ばれるために、何という愛を御父は私たちに与えて下さったことでしょう。現に私たちは神の子供たちなのです」。


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 御自身の子たる身分という事実から、主イエスは御自分の人生の究極的結果と達成に関して完全な確信を得ました。十字架がすぐ先にあること、自分が殺されることを御存知でしたが、この確信によって彼は遠くまで進みました。彼は地上で三年半のあいだ奉仕されました。そしてその後、彼の地上生涯はすべて終わりました。彼はそれにどのように直面されたのでしょう?彼はそれを自分に臨むべきもの、経過すべきものと見なされましたが、それは彼や、御父に対する彼の関係を何も変えませんでした。彼の苦難はトンネルにすぎませんでした。それを通り抜けて、次に外に出て光の中に入り、永遠にわたって前進するためのものだったのです。なぜなら、彼は神の御子だったからです。死は彼にとって一つの出来事にすぎませんでした。なぜなら、彼の子たる身分は不滅で永遠だったからです。御自分の働きは十字架で終わらず、復活の立場に基づいて永遠にわたって続くことを、彼は御存知でした。彼はこの束の間の時のためだけに生きておられたのではありません。このように、彼は子たる身分の事実から御自身の力を引き出されたのです。

 これで一巻の終わりである、と私たちは言うのでしょうか?私たちは、この地上生活の諸々の試みは過ぎ去って行く偶然の出来事であり、私たちや私たちの内側の状態に何の相違も生じさせない、と受け取るのでしょうか?(主が遅れて)私たちが墓を通ることになったとしても、それは拡大へと至る通過点にすぎないことを、私たちは知るべきです。来るべき時代、私たちには奉仕と輝かしい未来があるでしょう。「彼の僕たちは彼に仕え、その御顔を見る」。子たる身分についてのこの知識により、主イエスは勝利の内に十字架の暗闇をくぐり抜けることができました。彼の最後の言葉は「父よ」でした。十字架で一巻の終わりだったなら、そうではなかったでしょう。彼の弟子たちは、これで一巻の終わりだと思いました。しかし後に、それはそれ以上のものを意味することを彼らは理解しました。それは新しい事の始まりでした――子たる身分が目的でした。主イエスの場合、子たる身分の地位により、結末に関する強力な保証を得ました。その背後には、死を征服する永遠の命がありました。

 この保証は私たちにも有効です。栄光の内におられる私たちの主イエスを見る時、私たちの疑問は解けます。神が求めておられるのは、子たる身分の究極的完成です。子たる身分の基礎に基づいて、御父は御自身のすべての豊かさを与えて下さいます。これにより、私たちのためにすべてが可能になります。「なぜなら父は子を愛しておられ、御自身のなさることをすべて子に示して下さるからです」。主イエスは「父が万物を自分の手に与えて下さったこと、また、自分は神から来たこと」を御存知でした。


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 子たる身分の目的は何でしょう?それは、霊的に責任ある地位に私たちをもたらすことです。神は決して「職員」に責任を与えません。子たちにお与えになります。ですから、神は私たちを子供たちとして訓練しなければなりません。それは私たちの内に子たる身分を成長させるためであり、神のために責任を担える地点に私たちをもたらすためです。神は私たちを霊的に成熟した状態に、完全なる成長にもたらそうとしておられます。これを行うのは聖書学校では無理ですし、人々を「務めの中に」入れることによっても無理です。神は決して公的側面で働くことはありません。ああ、そうです、神は私たちを御自身の学校に入学させます。神はまた、どこかの機関の中にある御自身の学校に私たちを入学させることもできます。そして、神がそうされるとき、それは幸いなことです。しかし、神の学校は学術活動とは大いに異なります。御言葉は述べています、「わが子よ、主の懲らしめを軽んじてはならない。彼に叱られる時、気落ちしてはならない。主は愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子をむち打たれるからである」。「受け入れるすべての子」というこの言葉に注意して下さい。ギリシャ語の正確な意味は「受け入れる」ではなく、「地位に着ける」あるいは置くです。それは地位の問題です。神は私たちの中に信頼可能な状態を育もうとしておられます。神が私たちを取り扱っておられる時、その背後には素晴らしい保証があります。すなわち、神は私たちに御自身の委託を委ねようとしておられるのであり、信用ある地位に私たちを就けようとしておられるのです。私たちは単なる僕、ちっぽけな機械になりたくありません。父と一つになった子、その手に父が霊的責任を与えられる子になりたいのです。これを真に認識する時、神はなぜ私たちをこのように取り扱っておられるのかを私たちは理解し始めます。しかし、神がその中におられるので、この結末は確かであることがわかります。神は御自身の子供たちを切り抜けさせて下さいます。


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 神はイスラエルを御自身の長子と呼ばれました。神はこの子たる身分の基礎に基づいて御自身の民の傍らに立たれました。それゆえ、イスラエルは諸国民の間で重要かつ意義深い地位を得ることができました。それは地上における神の選びの器でした。神に対するその内的関係が単なる外面的形式になってしまったため、神は御自身の民から退いて彼らを捕囚に送らなければなりませんでした。イスラエルが主の方に向いて、「どうしてあなたは私たちをこのように扱われるのですか?私たちは諸国民の間におけるあなたの代表ではないでしょうか?」と言っても無駄だったでしょう。神の答えは、「公的地位は私にとって無です。私に対するあなたの関係が正しくない限り、あなたの子たる身分の意義と要求の中にあなたがいない限り、私はあなたを助けることができません」というものだったでしょう。私たちの地位と使命は子たる身分と関係していることがわかります。まさにこの理由のゆえに、主イエスは子たる身分を強調されました。彼は決して、「父は私がこの地上で果たすために来た務めを愛しておられます」とは言いませんでした。そうではなく、「父は子を愛しておられます」と言われました。地位と使命は子たる身分に基づかなければなりません。子たる身分がなければ、それらは神の御前では無価値です。


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 今や、子たる身分は神の活動の基礎です。子たる身分の地位・使命は、「公的」任命とは何も関係ありません。私たちに対する神の取り扱いは、公的立場に基づくものではありません。神が私たちに関心を寄せておられるのは、私たちが何らかのキリスト教の働きに携わったり、特別な役職を示す或る名称を名乗っているからではありません。奉仕者やキリスト教の働き人であることは、神が特別に私たちを通して働かれることを意味しません。私たちに対する神の取り扱いは、神の子供たちとしての、私たちの彼との関係に基づきます。彼は私たちを子たちとして扱っておられます。それは霊的なことであって、役職の問題ではありません。務めは、ですから、神に対する特別な関係の結果です。神の実際の働きは彼との私たちの霊的関係にかかっており、私たちの奉仕の価値は神との私たちの合一に比例します。

 神と絶対的に一つである者たちだけが、神のために責任を負うことができます。私たちが何と名乗ろうと、主のための私たちの活動がどれほど偉大だろうと、神はそのようなことを顧慮されません。彼のもとに行って、「さて主よ、私がこの働きに携わっているのをあなたは御存知です。ですから、このことで助けてほしいのです」と言っても無駄です。それは神が私たちを助けるべき理由ではありません。神は御自身の子供たちの傍らに立って、内的関係に基づいてただ彼らとだけ働かれます。「公的」地位に着いていない人でも、公的な務めや地位を持つ多くの人よりも、主にとって遥かに有用な場合もあるかもしれません。大事なのは私たちの霊的知識や公的務めではなく、神との私たちの隠れた関係です。神は私たちを御自身の奉仕に相応しい者に霊的にして下さり、私たちの役職ではなく私たちの子たる身分を維持して下さいます。私たちが彼に対する自分の関係を気遣うなら、神は私たちの地位を気遣って下さいます。


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