これらの要素のいくつかを見ると、それらが印象的であることがわかります。しかし、まず、メルキゼデクという人物の特異性に印象付けられます。何と不思議な方法で彼はこの場面に登場するのでしょう。彼について過去に聞いたことは一切なく、このいくつかの文章で述べられていること以外、彼について何もわかりません。それでも彼はここでは王であり、いと高き神の祭司であって、不法に満ちた土地にいます。彼は突然このように現れて、サレムの王、いと高き神の祭司として、主の御名の中でアブラムを祝福します。実に並外れた人物です。そして、これらの特徴により、彼の人格の特異性により、エルサレムの霊的歴史におけるとても重要な地位を占めるのにうってつけです。彼は言わば、未知のものから出て来たかのように、最初から成熟した状態で、突然天から下ってきたかのように思われます。そこに未熟なものは何もありません。幼児期から始まるのではありません。この人はまさに成熟していることがわかります。このような成熟に至るには、主の働きの歴史で何世紀も要します。メルキゼデクが表しているものをこの地上で実現するには、とても長い歴史が必要でしょう。彼はこのように円熟した方法で、成熟した方法で登場します。まるで彼は神の御思い全体を直ちに打ち立てるかのように思われます。神の完全な御心が、どこから来たのかわからない一人の人によって表されます。まるで神が完全な御思いを、事の初めに一人の人の中に置き、その後、その模範にしたがって歴史を展開しておられるかのようです。これが神が事をなさる方法です。ですからメルキゼデクは最も印象的な人になります。私たちは新約聖書から、特にヘブル人への手紙から、神は彼をあるとても完全なものの型となるようにされたことを知っています。彼はある秩序をもたらします。その秩序は超地的であり、超アロン的です――系図もなく、父もなく、母もなく、生涯の始まりも終わりもありません。そこでは永遠、普遍性がこの一人の人の中に集約されています。


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聖書朗読:黙三・七~一三、二一・一~四

 黙示録三章のこの節から、勝利者は自分の上に神の都の名を記されることがわかります。「勝利を得る者(中略)私は彼の上に私の神の名と、私の神の都である新しいエルサレムの名とを書き記そう」。これはいささか注目すべき文言であり、とても興味深いです。確かに、これについて考えれば考えるほど、「勝利者の上に新しいエルサレムの名が記されるとはどういう意味だろう」とますます不思議に思うようになります。ですから、この名は何を意味するのか、それは勝利を得ることとどういう関係にあるのか、もう少し理解したいと思います。

 これまで通り、ここでまた、聖書におけるエルサレムへの最初の言及に戻ることにします。そこで私たちは鍵を得ます。

 聖書におけるエルサレムに対する最初の言及は、創世記一四・一八~一九のメルキゼデクに関してなされています。ここで、サレムという省略形で初めて言及されているのを、私たちは見い出します。「エルサレム」は「平和の都」を意味します。それについて非常に多くのことが述べられてきましたし、エルサレムの名について書物が何巻も書かれてきました。多くのとても素晴らしい観念がこの名と関連付けられてきました。しかし、それが「平和の都」としてとても単純に表現されています。この言葉の一つの由来は、その位置、その強度、その高さによる安全性なのかもしれませんし、この意味で、それは平和の都――転覆・破壊するのが極めて困難な都――と名付けられたのかもしれません。しかし、私たちの目的のためには、この極めて単純な数々の定義で十分です。どうやら、メルキゼデクは「いと高き神」の祭司であるだけでなく、この都の王でもあったようです。


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 ベツレヘム訪問を振り返って、彼はキリスト降誕教会に入ったことについて述べています。これについて彼はこう言っています――

 「教会は、イエス・キリストの出生地と思われる洞窟の上に建てられている……

 この教会は、聖墳墓教会と同じように、分割所有の問題に悩まされている。それはラテン系民族、ギリシャ人、アルメニア人の手中にある。

 様々な教会が自分たちの権利に熱心なせいで、埃を掃くことですら時として危険な仕事になる。また、そこには三つの釘がある一つの円柱がある。その内の一つの釘にはラテン系民族が、もう一つの釘にはギリシャ人が絵をかけることができ、中間の釘にはいかなる宗派も何もかけることができない。

 床に一つの星があり、その周りには『ここでイエス・キリストは処女マリアからお生まれになった』というラテン語の碑文がある。数年前にこの星が取り除かれたところ、フランスとロシアの間に紛争が起き、それがクリミア戦争へと飛び火した」。

 要点はこうです。天のキリストを拒絶したこの場所は、偽りの教会、教会とは何かに関する誤った観念が現出する舞台、それが最も強烈に現出する舞台となったのです。すでに述べましたが、エルサレムにおいてキリスト教界の妄想が強烈に表されました。しかしそれは、神の御思いを表すことに失敗するとき、その結果実際にどんなことが起きうるのかを示すものにすぎません。その程度は様々かもしれませんが、原則は同じままです。もし人が、聖霊の支配から少しでも外れて、神の事柄に侵入するなら、その結果、その程度に応じて死、分裂、混乱、矛盾が生じます。

 私はこの文言を注意深く記しました。それは、これを正確に示すためです。これにすべてかかっているので、私はこれを繰り返すことにします。その程度は様々かもしれませんが、原則は同じままです。もし人が、聖霊の支配から少しでも外れて、神の事柄に侵入するなら、その結果、その程度に応じて死、分裂、混乱、矛盾が生じます!

 ですから、人は退出しなければなりません。天的な人であるキリストが、神の家を支配する御子、教会のかしらでなければなりません。そして、彼の頭首権は、ただ天の聖霊によってのみ執行されなければなりません。ここでまた、十字架の絶えざる働きとその現実的活動が必要になります。それによって、その領域全体と肉的な人の組織は排除・除外されます。次に、ここで聖霊の充満が必要になります。それは、教会が自分のために備えられている地位に至り、天から出て下って来て、神の宇宙の中心、この宇宙における神の統治の中心となるためです。


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 あなたたちの多くはモルトンの「主の歩みを辿って」という本を読んでおられると思います。私が言わんとしていることを説明するために、そこから一つか二つの断片をあなたたちに与えることにします。ここで彼は彼のエルサレム訪問について、聖墳墓教会訪問について述べています。彼はこう言っています――

 「この教会は、暗闇と老朽化の圧倒的印象を人に与える。その通路はとても暗かったため、私は自分の道を見い出すためにマッチを何本も擦らなければならなかった。石、木、鉄はどこも老朽介していて、幻想的だった。私はキャンバスの上で腐っている数々の絵を見た。私はまた、まだ枠組みは残っているものの、白く色あせている数々のキャンバスを見た。その絵の具の最後のかけらは剥がれ落ちていたが、それらは依然として所定の位置にあった。石や大理石には不吉な亀裂やひびが入っていた。『極端な宗教的情熱が極端な放置とまったく同じ影響を及ぼしうるとは何と奇妙なことだろう』と私は思った。聖墳墓教会が老朽化してボロボロの雰囲気を帯びているのは、次の単純な理由による。一枚の絵を掛け直したり、一つの石を修理したり、一つの窓を直すことですら、その共同体の人々から見て一大事なのである。それで彼らは無期限延期が可能な状況を引き起こしているのである。(中略)芸術と俗悪さが並立している。ある皇帝の贈物である貴重な杯が、クリスマスツリーから引き抜かれたと思われる安っぽい薄片の隣にある。そして、古びた金の輝きをぼんやりと放つ数百のイコンが、ロウソクの滴を、聖徒や王の堅苦しいビザンチン風の姿の上に受けている。

 ギリシャの修道僧たちがロウソクの明かりの方に向かって吊り香炉を振り動かすと、彼らの香の青い煙が湧き出て、イコンや金色のついたてのあたりに漂った。大理石の床の上に跪いている礼拝者たちは、一連の異国風の宝石商店の前にひれ伏しているかのようである……。

 ここは磔殺の丘、地上で最も聖なる場所であるカルバリだった。その昔の面影の跡を見つけられるのではないかと期待して私はあたりを見たが、それは信心深さを装う息の詰まるような装飾品の下に永遠に消し去られていた。その前に私が跪いていた礼拝所は十字架建立の礼拝所であり、その隣の礼拝所は十字架釘付けの礼拝所だった」。


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キリスト教界の地に向かう傾向性

 イスラム教のキリスト教に対する勝利にこれが明らかに見られるだけでなく、歴史の別の一頁もとても強力な証拠、とても明確な絵図を与えます。それは十字軍の歴史です。百年間続きましたが、十字軍はキリスト教の歴史の中で最も不名誉な出来事の一つでした。もちろん、それは失敗する運命にあり、実際に失敗しました。子供の頃、私たちは十字軍や獅子心王リチャード等の英雄譚や物語を教わりました。しかし成長してから、私たちは自分でその物語を読みました。そして、私たちの子供じみた憧れはすっかり消え失せました。そして、物事を神の観点から理解するようになるにつれて、キリスト教の歴史のその頁を振り返るたびに、私たちまますます恥じて赤面するようになりました。パレスチナをキリスト教に取り戻そうとして、強力な軍隊が集められ、大虐殺が行われ、教会の名によって破壊と虐殺がなされたのです。そんなことはあってはなりません!それは物事を行う天的な方法ではありません。私たちの戦いは肉や血に対するものではありませんし、私たちの戦いの武器は肉的なものではなく霊的なものです。「私の王国はこの世からのものではありません。もし私の王国がこの世からのものだったなら、私の僕たちが戦っていたでしょう……」(ヨハ一八・三六)。これらが天のエルサレムの基盤的諸法則です。今日のパレスチナはおぞましい見世物です。キリストの地上生涯と何らかの方法で特別に関係している場所はすべて、悲劇的なことにキリスト教であると不当に称されているものどころではないものによって印づけられています。恥ずべき不当なものが真理のすぐ近くにあります。それは教会と称されているものであり、その中では対立がとても激しいため、クリスチャンたちの安全のために、その敷地内だけでなくその周囲にも、兵士を配置しなければならないほどです。


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