力、原則、性質としてのこの天的性質は、何と素晴らしいものなのでしょう!そして、極めて偉大な尊い諸々の約束が私たちに与えられています。それらの約束により、私たちは神の性質に与る者となることができます。もちろん、サタンはこれまで流布してきた誤謬の限りを尽くして、ここに割り込んできました。それはまさにこれを覆すためです。サタンの誤謬は常に、人における神の性質の現れ・顕現というまさにこの問題と関係していました。一方において、主イエス御自身のパースンがサタンの誤謬の対象とされてきました。そして、その神聖な子たる身分が実際とは異なるもの、実際よりも劣るものとされてきました。他方において、それと対をなす誤謬は、人はもともと神聖であるという誤謬です。進化論の目的は人を神とすることです。神は人の中にいる、とすることです。ああ、今日の哀れな哲学!しかし、この問題にはこれ以上立ち入らないことにしましょう。サタンが導入した誤謬はみな、まさにこの問題に触れるものであることがわかります。人による神の性質の現れについて述べる時、私はこれらの誤謬を避けています。人の内におられるイエス・キリストにあって、神の性質が現わされるでしょう。私たちが神の御子のかたちに同形化される時、神の性質が現わされるでしょう。それは道徳的栄光であり、神格の栄光ではありません。私たちは決して神になることはありませんし、神格化されることもありません。そうです、神は独自の存在であり続けますし、神格は永遠に被造物とは無限にかけ離れているでしょう。しかし、キリストの中にある神の道徳的栄光・道徳的性質は、教会によって代々限りなく輝き渡るでしょう。

 さて、これが天的性質であり、私たちが道徳的・霊的に着いている地位です。これは、信仰による神の義を正しく適切に理解することによります。それは地位であり、途方もない地位です。神の御旨が成就された暁に、その結末がどうなるのか、サタンは知っています。その結末は、サタンのすべての腐敗から、したがってそのすべての力から絶対的に清められた宇宙であり、神の栄光で輝き渡る宇宙です。


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天的性質の目的――教会における神の栄光の現れ

 コリント人への第一の手紙の一五章で使徒は以下のような言葉を用いています。

 「土に属する人に、土に属している者たちは同じであり、天に属する人に、天に属している者たちもまた同じです」(一コリ一五・四八)。「天に属する」――これは確立済みのものです。天的なものとして確立されているものです。次に、この節の後半は「天に属している者たちもまた同じです」と述べています。これは天的なものへの同形化について物語っています。再び問いますが、この嗣業、この天的性質とは何でしょう?御自分の宇宙を創造した神の目的、特に人を創造した神の目的は何でしょう?それは、御自身の性質の中にある御自身の栄光を輝き渡らせることに他なりません。御自身の性質の本質的栄光、神の性質の栄光を輝き渡らせることに関して、罪深い人は無力であり、何もできません。弱く、無能です。それはありのままの神であり、自分自身を現わす神の本質的性質です。神は御自分の栄光のために人を造られました。最終的に、神が試練を通して人を肉体的存在としてだけでなく道徳的存在としても完成される時、人は神の道徳的栄光を現わす媒体となります。そして神は全宇宙で御自身の本質である道徳的性質を現わされます。人はそのように造られました。これは栄光、言い尽くせない栄光であり、今や御子による贖いの道筋に沿って私たちに提供されています。神は「私たちの心を照らして、イエス・キリストの御顔にある神の栄光を知る知識の光を与えて下さいました」。ああ、肉体的観念をここでも取り除きましょう!この顔の意味は表示に他なりません。それはこの人、この代表者です。神の栄光は代表者であるイエス・キリストにあって来ました。さらにキリストは私たちの心の中におられ、私たちの内におられるキリストは栄光の望みです。どんな栄光でしょう?今、太陽が天の中心であるように、最終的に、神が獲得して御子のかたちに同形化した人々がこの宇宙の中心となることです。神の道徳的栄光の輝きのまさに中心・充満となることです。このような宇宙について考えてみて下さい!そして、今わたしたちが生きているこの世界と比べてみて下さい。結末はこうなります。「この御方に栄光が、教会により、またキリスト・イエスにより、代々限りなくありますように」。これが神の天的御旨であり、神の天的民であり、キリスト・イエスによる神の天的召しです。


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 聖書の冒頭の創世記と、エペソ人への手紙の中に示されている神の御心の高度な啓示とをつなぐ二つの御言葉が見つかります。エペソ人への手紙は、神の永遠の御旨、神の計画に関して私たちが持っている最も完全な啓示です。この手紙の中に、聖書中の他のどの箇所よりも完全に、世を造る前に神の御心の中にあったものが示されています。次に、創世記第二章の中に、エペソ書五章で引用されている節が見つかります。

 「それゆえに、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。この奥義は偉大である。しかし、私はキリストと教会のことを言っているのである」(エペ五・三一~三二)。神の御旨を見るには、エペソ五章から創世記二章まで、そしてさらにその前まで遡らなければなりません。人と妻のこの一体性は象徴にすぎず、永遠の過去からの神の御旨――キリストと教会――の表われである、と述べられています。これは代々の時代や世代にわたって隠されていた奥義である、とパウロは述べています。これが神の御心の奥深くにありましたが、今や知らされています。このように、夫と妻の関係のような人間関係は、神の御思いによると、何かの表われ、天的な何かの表われです。私が言わんとしていることの一例として、私はこれを選んだにすぎません。神の目に見える被造物のどこにおいても、この同じ原則が成り立っていることがわかります。それは霊的思想、霊的観念の表われです。

 さてそれから、神が人を創造されたのは、地に人を住まわせ、生息させ、地を人で満たすためだけではありません。それには霊的観念、天的思想が伴っていました。それは人を天的な存在にならせること、その存在のまさに中心が天的である人々にならせることです。天的性質が神の全被造物を支配している大原則であり、これは途方もない変化を私たちに生じさせます。パウロは、「どうか彼が知恵と啓示の霊を与えて彼を認めさせて下さいますように。彼の召しの望みがどんなものであるのか、また聖徒たちの中にある彼の嗣業の栄光がどんなに豊富であるのかを知ることができますように」と祈りましたが、これがパウロが言わんとしたことです。私たちも自分自身のために、また互いのために、祈らなければなりません。聖徒たちの中にある彼の嗣業――これは天的なものなのです!


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(b)キリストにあって悪魔の力よりも優位にある

 さて、地位についてです。これは、この龍、この蛇、「悪魔またサタンと呼ばれている者」、兄弟たちを訴える者、全地を欺く者の力に対する優位性の問題です。霊的「超越性」の問題です。これが教会の地位です。もし罪定めの霊の下にあるなら、あなたは決してそこにいることはできません。もし訴えの霊の下にあるなら、もし自分自身の惨めさで占有されているなら、あなたは到底天上にはありません。信仰から発したこの義は、敵に対して有利な霊的地位を意味します。これが「天上にあることの」何たるかです。

 さて、すべてを後にして、これに戻ろうではありませんか。前の黙想で見たように、勝利者とは、神の完全な御旨が失われた時代に、神の完全な御旨のために立つ個人や団体です。創造の前から神が御民に対して持っておられた御旨は、彼らが天的な民となることであり、この御旨はずっと同じままでした。

 神の目に見える被造物はみな、何らかの天的思想の表現です。これを覚えておいて下さい。どの被造物もそれ自身は大したものではありません。

 被造物は自分自身でひとかどのものになるようには決してできていません。物質的な目に見える類のものから神が造られたものはみな、象徴であり、霊的・天的思想の表われです。ああ、もしこれについて述べ始めるなら、かなり長い時間話せたでしょう。しかし、私は短くこれに触れるだけにして、私の述べたいことを示すことにします。


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教会の地位

 すでに述べましたが、信仰による義の状態と、その状態に適う行いの義しさは、教会の地位という結果になります。信仰によるこの状態の結果である、教会のこの地位とは何でしょう?諸教会を取り扱うにあたってエペソが最初にくるのは、無意味なことではありません。エペソは包括的・基礎的である、という感覚があります。アジアのこれらの諸教会はパウロを通して生まれました。使徒の働き一九章を見て下さい。最初に一〇節は「アジアに住んでいる者はみな、主の御言葉を聞いた」と述べています。これはエペソから発しました。使徒の働き一九章では、パウロはエペソにいます。二六節でデメテリオは「このパウロは、エペソばかりか全アジアで、多くの人々を転向させた」と述べています。全アジアで!ここにアジアの七つの教会があります。さて、エペソは全体に対する鍵であり、核心です。

(a)キリストにあって天上にある

 それでは、教会の中心的な至高の地位とは何でしょう?それは(いわゆる)エペソ人への手紙に記されています。この手紙はエペソの教会を含む諸教会への回勅の手紙でした。この手紙では、教会の地位はキリストにあって天上にあることがわかります。これがエペソ人への手紙中に響いている基調です。まず第一に、キリストにあって天上のすべての霊的祝福をもって祝福されています。次に、彼と共に天上で座に着いています。それから天上における務めです――「今や、天上にいる主権者たちや権力者たちに対して……」。それから最後まで進むと、天上における戦いです。私たちの戦いは天上における戦いです。信仰による義の状態のおかげで、教会には天における霊的地位があることが示されています。地上の地理的・文字的観念に固執しすぎる危険性に気をつけましょう。また、美化・昇華された無価値なものに夢中になる危険性に注意しましょう。この問題はまったく、第一に、霊的地位の問題であり、霊的優位性の問題です。そしてこれは、日々の生活のほとんど毎瞬に関する問題です。つまり、天上にあるというこの問題は、往々にして皿洗いのような事柄にまで影響を及ぼすのです。皿を洗っている時でも、天上にあることが可能です。あるいは、その正反対も可能です。これは、あなたがその中でそれを為す霊次第です。不平を鳴らしてぼやき始めるなら、これは天の王国の相続者である神の子供にとって、あまりにもつまらない仕事になります。「まさか自分がこんなことをする羽目になるとは!」と思うなら、あなたは天上にはいません。しかし、「これは確かにとてもつまらない仕事です。しかし、すべてのことを神をあがめるためにしようではありませんか!」という態度を取るなら、あなたは天上にあります。これは霊的問題、道徳的問題、霊的感覚の道徳的力の問題です。これが天上の意味です。それは、私たちがどこにいても、私たちの生活の一瞬一瞬に触れます。「この死すべき体から逃れて、雲に達し、天のどこかに飛び去っていかなければならない」と考えてはいけません!そのようなことは天上にあることではありません。


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