証しの道具と性格

 聖霊が彼らを証しの中にもたらされた瞬間から、この二つの特徴がある事実に注意してください。その特徴とは、聖霊は何度も何度も二人の人を証しの道具に構成されたこと、そして、彼らの証しは常に「神がよみがえらせて御自身の右に上げられたナザレのイエス」だったことです。彼らはこれをどこで得たのでしょう?彼らの中の二人が御自身の秩序を代表するよう、主が常に配慮されたのはどうしてでしょう?パウロとバルナバが一緒に遣わされ、決裂した後は、パウロと他の誰かが遣わされました。主は証しのために常に最低限として二人を維持しようとされました。その証しは常にナザレのイエスであり、それ以外のものではありませんでした。その証しは、「……このイエスをあなたたちは殺して木に架けましたが、神は御自身の右に上げられました……」です。これは天からのふたりの人によって確立されました。「このイエス」――彼は生きており、上げられて天におられます。二人の人は天の証しに同調しました。この天の証しは、復活の命と天に上げられたナザレのイエスに関する事実に対するものであり、この経綸のためのものです。

 これがこの経綸を支配しています。二人の中にこの証しがあります。そしてこの証しは、イエスは神の右で栄光を受けておられる、という事実に対するものです。今、聖霊が臨んで、この基礎に基づいて教会と信者を構成されます。それは教会と信者が、「イエスは生きておられる」という真理の化身になるためです。この真理は単なる客観的事実として告げられるべきものではなく、器によって表現されるべきものです。「彼が生きていると、どうしてあなたにわかるのですか?彼を見たことがないのに」。「それは信仰によります」。「ああ、そうですか、信仰は疑いなく抽象的なものです。あなたはどうやってそれを証明するのですか?」。「私はその事実の化身です」。「ああ、それはうぬぼれです。あなたは高ぶっています」。「いいでしょう。私は地上でこの基礎に基づいて生きることにします。そうすればわかるでしょう」。主はこの基礎に基づいてあなたを取り扱われます。主はあなたの天然の命を砕き、あなたの天然の能力を砕き、それらを終わらせて、天然的な知識や知恵を清算されます。そして遂には何も残らなくなります。その時、主はある基礎に基づいて事を行われます。その基礎は圧迫に耐えうるものであり、あの働きを生み出せるものです。それは、イエスは信者と教会によって具現化される、という証しです。これが御自分の教会に対する神の御旨です。教会はこれから何と遠く離れてしまったことでしょう。教会に対する神の御旨は、教会がイエスの証しの具現化・現われとなることでした。最初の時はそうでした。自分ではこの世の知恵やこの世の力に立ち向かえない人々を、神は選ばれました。彼ら自身はまったく軽んじられた者でした。タルソのサウロのように、ひとかどの者と見なされるこの世の経歴が彼らにあろうものなら、主は彼らをそうしたものの中からまったく引き出して、生きる望みを失って死を覚悟する地点にもたらされました。それは、彼らが自分自身にではなく、死者をよみがえらせる神に頼るようになるためでした。主はこれを何度も何度も行われました。そして彼らはこの証しになりました。あの証しの化身そのものとなったのです。


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天の御座に着いている人である復活の主に順応すること

 さて、この章のいくつかの句を取り上げることにします。

「イエスが上って行かれるとき、彼らがじっと天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立って言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見つめて立っているのか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは……』」。


 「ガリラヤの人たちよ……」「白い衣を着たふたりの人」。ここでも、聖霊は言葉に関して何の間違いも犯しておられません。聖霊は「ふたりの天使」と言うこともできましたが、そうされませんでした。聖霊は「ガリラヤの人たちよ……」と言ってから、「白い衣を着たふたりの人」と仰せられました。ここに地的な人々と天的な人々がいて、地的な人々は天的な人々によって正されます。あるいは、天的な人々が地的な人々を天の現実に順応させた、とも言えるでしょう。「ガリラヤの人たちよ」。さて、ガリラヤ人という呼称は非難を表すものであり、軽蔑を示すのに用いられるものでした。他の人々の心の中には、ガリラヤ人のことをやや劣るものと見なす思いがありました。ですからここでは、天的統治により地的非難と天的栄光とが一緒にされています。この箇所には、実は天使であるふたりの人がいます。「彼らはみな仕える霊であって、救いの相続者である者たちに仕えるために遣わされたのではないでしょうか?」(ヘブ一・一四)。これは天的事柄の行政、統治です。

 このふたりの人によって天的行政が臨み、地に属する人々の間にあった考えを正しました。天的栄光が臨んで、地的非難を受けていた人々を天的栄光に順応させました。二という数字は聖書では証しを意味します――「二人の証人の口によって」。「彼は彼らを二人ずつ遣わされた」。二という数字を見つける時はいつでも、証しに関して主が必要とされる最低限のものを見い出します。しかし、主にとって証しにはそれで充分です。

 さて、これらの句の意味について考えることにしましょう。天からのふたりの人が、この人々を正します。この人々は聖霊の力の下に来て、天的な人々にならなければなりません。彼らは霊的な人々になるために、天の現実に順応させられつつあります。彼らはじっと天を見つめて立っています。彼らは心の中で何を考えているのでしょう?どんな表情を浮かべているのでしょう?おそらく、彼らの心には一つの大きな疑問、あらゆる種類の感情・希望・恐れが湧き起こっていたでしょう。「主が行ってしまう」「自分たちは主を失ってしまう」「取り残される」。まるであの雲は、結局のところ、天のキリストと地のキリストとの間に大きな分断を生じさせようとしているかのようです。このふたりの人の「……なぜ天を見つめて立っているのか?このイエスは……」という言葉は、その時彼らの内で起きていたことに対する答として受け取らなければなりません。彼らの眼差しに対する答として、また、彼らの眼差しの奥にあった彼らの気持ちに対する答として受け取らなければなりません。このふたりの人は「かつておられたイエスは」と言ったのではなく――「依然としておられるイエスは」と言いました。実質的に彼らはこう言いました、「彼は全く同じままです。あなたたちから離れて天に迎え入れられましたが、彼は依然としてイエスのままです」。こうして弟子たちはこの天的な人々によって、次の事実に順応するようにさせられました。すなわち、このイエスは天で生きておられるという事実です。その時から彼らは、「イエスは変わることなく、天でも依然としてイエスのままである」という基礎に立ち返り(なぜなら彼らはこのふたりの人の言葉からはっきりとこのような結論を下したからです)、この基礎に基づいて進まなければなりません。彼は再び戻って来られますが、依然として天のイエスのままです。

 「これは強調しすぎであり、分析が細かすぎる」とあなたは思うかもしれません。しかしその背後には、時が示すよりも遥かに多くのことが込められています。


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 その目的がわかります。また、この経綸に対する信仰の基礎がわかります。それは主の臨在の性質であり、主を知ることができる方法です。それが霊性です。この基礎に基づいて聖霊は来臨して、教会を確立されます。あなたや私、あるいは、主の民のどの団体でも、もし本当に聖霊の統治の下に来るなら、それは、ここに示されている完全な意味で、上の部屋となるでしょう。私たちは主の臨在を悟り、主は御自身を私たちに知らせて下さるでしょう。これはとても単純ですが、霊性の基礎であり、最初から霊性の性質です。教会の霊的性質は、主の生ける臨在と、御自身を知らせて下さる主のおかげです。

 主は御自身を彼らに知らせました。四十日のあいだ、主は彼らに御自身を現わされました。四十日でこの基礎を据えた後、別れの時が来て、雲が視界を遮り、彼らには主が見えなくなりました。続いて聖霊が来臨し、この四十日の基礎に基づいて、この四十日が意味するところ――それは主の生ける臨在と、主は絶えず御自身を知らせて下さるということです――にしたがって、教会が確立されます。あなたはこの真理を新約聖書の中に見ることができます。また、それ以降ずっと、聖霊が何かを完全に御手の下に置かれる時にも見ることができます。主はそこにおられ、絶えず御自身を知らせて下さいます。


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復活の主の臨在と復活の主を知る知識

 想像力を活用して(これらのことに関してそうしても時には許されると思います)自分をこの使徒たちの立場に置き換えてみるとき、私たちはどれほどあの上の部屋に立ち返る必要があることでしょう。思い出して下さい、使徒たちは過ぎ越しでパンを裂いたとき、その上の部屋に主と共にあまり長くとどまりませんでした。主はそこにおられ、彼らは主を見ました。彼らの中の一人は、主によりかかれるほど主の傍近くにいました。彼らは主の御声を聞きました。それは間違いありません。あの過ぎ越しの晩、主はそこにおられました。さて、十字架、復活、四十日といった奇妙なことがすべて起きて、彼らはあの同じ部屋に戻って来ました。彼らはどのように戻って来たのでしょう?どう感じていたのでしょう?

 さて、あなたはある素晴らしい機会に、一人の愛すべき友と地上に共にいたことがあるかもしれません。その時、様々な事を語り合い、二人の間で取り決めをしたかもしれません。その取り決めは素晴らしい性質を帯びた、格別に印象的で意義深いものだったことでしょう。その友人は、おそらく、その後亡くなって、少しの時間がたちました。その友人はもはや昔のようにはあなたと共にいません。友が亡くなった後、初めてその部屋に戻る時、あなたはどう感じるでしょう?死が生じた、と感じるでしょう。そこにはある溝があります。当時起きたことがすべて洪水のように思い出されますが、もはや友はいません。すべて消え去りました。喪失、痛み、悲しみの大きな感覚があなたに臨みます。悲劇的雰囲気がその場所に漂っています。普通はそうなります。

 この弟子たちはそこに戻りました。彼らはどう感じたでしょう?これらのことの後、彼らがそこに戻ったとき、死が生じたかのように彼らは感じていたでしょうか?友はいなくなってしまった、世界は空虚である、すべては非現実的である、人生は空虚だ、と感じていたでしょうか?いいえ、そんなことはまったくありません。彼らがあの上の部屋に戻ったとき、主は去ってしまったこと、しかし、主はいつもそこにおられることを、彼らは自覚していました。主は死なれましたが、主は生きておられました。彼らは主を失いましたが、それでも彼らは主を持っていました。この四十日の趣旨は、主は常に彼らと共におられることを彼らに知らせることでした。主が求めておられたのは、彼らに関してこのような状態を造り出すことでした。すなわち、主は死なれたけれども生きておられ、主は肉声で彼らに語るのをやめられたけれども、彼らは主を知ることができ、主を知り続けることができる、という状態です。彼らがあの上の部屋に戻って来たとき、彼らは自分の主人を失った人々のようではなく、主と共に進み続けている人々のようでした。主は働くのをやめたわけではなく、働き続けておられました。語るのをやめたわけではなく、語り続けておられました。彼らがまたもや主の臨在の中にいるかのようにあの上の部屋にいるのを、私たちは見い出します。主はこの四十日によって彼らをこの立場にもたらされました。


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 さて、この四十日について考えることにします。この四十日は、すでに述べたように、キリスト復活後の四十日です。この期間のあいだに、これまで述べてきたことがみな、はっきりと示されます。つまり、霊的なものであってこの世の外にあるものについて述べてきたことです。この四十日間の行動により、キリストは霊性の意義を示されました。そして、聖霊の降臨により、使徒たちと教会はこの基礎の上に確立されました。この二つの関係を理解することが重要です。この四十日間により主イエスは何かを示しておられたのであり、聖霊降臨により使徒たちと教会はこの基礎の上に確立されたのです。「それは総合的に言って一体何だったのか、一体何なのか」と問うなら、「それは現経綸においてキリストを示す方法、キリストを知る方法の問題である」と言えます。「四十」という数字は私たちにとって霊的生活の一つの相を意味しており、私たちの学びや、主の臨在の現実と関係しています。

信仰の新秩序

 使徒たちの働きの最初の章の物語によると、主は天に向かって昇って行かれ、その後、雲が視界を遮ります。これが最初の点です。主が天に迎え入れられる際にこの雲が視界を遮ったことは、全く新しい秩序を示すものであり、制定するものです。それは信仰の秩序です。しかし、信仰の背後には、この四十日に含まれるすべてのものがあります。これは理解するのがとても簡単です。

 主が現れたり消えたりされたこと、遠く離れた様々な場所で何度も何度も弟子たちの不意を突かれたことを、あなたは思い出すでしょう。それには顕著な証拠が伴っていましたし、体を離れた霊や亡霊ではなく、生ける御方である主御自身でした。それらにはみな特定の目的があったことがわかります。主は遊んでいるわけでも、弟子たちをからかっているわけでもありませんでした。四十日間にわたる主の行動、働き、出現とその方法には、ある確固たる重大な目的がありました。それらをみな背景としつつ、その後、弟子たちの前で主は昇天して、雲が視界を遮ります。聖霊は文学的効果を狙って言葉を使うことはありません。聖霊が言葉を使われるとき、それには意味があります。このささやかな句を挿入する価値があると聖霊が考えるとき、聖霊は素敵な絵図を描いていて、「そこには雲があった」と述べているわけではありません。聖霊は霊的意味を持つそれ以上のことを述べておられます。彼が述べておられるのは、いま達している秩序は目に見える秩序ではなく、信仰の秩序である、ということです。この雲は、導入された新しい秩序、この経綸の支配的原則である信仰の法則を物語っています。その基礎は何でしょう?この四十日が示すすべてのものです。この四十日間に起きたことは大いに現実的であり、真実であるため、自分たちはこの基礎に基づいて前進できる、と信じる信仰です。もはや主は見えず、雲が視界を遮っていても、この期間と同じように主は臨在しておられ、この先もその都度主を知ることができる、と信じる信仰です。これが、この期間の間に主が定めようとされたことです。

 信仰の新秩序をもたらすこの雲の目的は、この四十日間のこの秩序が自分の生活の標準的な秩序、物事の標準的な状況となる所に、弟子たちをもたらすことでした。


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