交わりのために成長する重要性

 そしてさらに、霊的交わりのために霊的成長がなければなりません。さらに優った積極的交わり抜きで、関係を持つおそれがあります。この関係は続きますが、今やあなたは交わりの中を進んでおり、真の霊的交わりのために霊的に成長しなければなりません。交わりは私たちの関係性の所産であるべきであり、交わりに導かない関係性にはその麗しさと豊かさが欠けており、その真の目的に達していません。ある共通の基礎、共通の立場という点を超えて、私たちは互いにやって行くことはできません。常にあなたの自己が優勢なら、ただ主と共に進んで行きたいというあなたの望みのみに基づいてあなたと共に進んで行くことは私にはできません。また、あなたもその立場に基づいて私と共に進んで行くことはできません。私たちが一緒に進んで行けるのは、キリストという共通の立場がある時だけです。「合意なしに二人は一緒に歩めるだろうか?」。これは「合意なしに二人は関係を持てるだろうか?」という問題ではありません。確かに二人は関係を持つことができます。同じ両親、同じ家族の子供たちは、一つの血によって関係していますが、一緒には歩んでいないかもしれません。一緒に歩む問題は進み続けて前進する問題です。共に歩めるのは、合意している時だけであり、共通の立場がある時だけです。もし一方が手前で立ち止まり、他方が進み続けるなら、この二人の間の交わりは進んだ地点までに限られます。もし一方が肉の中で進み、他方が御霊の中で進み続けるなら、彼ら二人が御霊の中で進み続けるのをやめる地点で彼らの交わりは終わりますが、彼らの関係は終わりません。私たちは人々によって支配されてはなりません。たとえ彼らがクリスチャンであってもです。私たちはキリスト教の組織によって支配されてはなりません。たとえクリスチャンの組織であったとしてもです。私たちはあらゆる点で霊なる主によって支配されなければなりません。

 ここに豊かな実りがあります。御霊の度量の中で共に進むこの立場を得る時、私たちは絶対的有用性の立場に達します。とても多くのことがこれにかかっています。往々にして人は知的に何かを理解・把握し、それを誰かから得て、その中で進み続けようとするのですが、その事柄は彼らの存在中に決して造り込まれておらず、彼らはそれを人づてに得たにすぎません。それは彼らの存在中に、聖霊の懲らしめ・鍛錬・訓練によって、決して造り込まれていません。そして、それが彼らの内側から現れることは決してありません。聖霊によってその事柄を内側に造り込まれるというような問題では、私たちは確かでありたいと願っています。


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信者の諸々の関係

 次の点は、私たちの諸々の関係は内なるキリストによって支配されなければならないということです。気づいておられるように、最初に私たちは個人と団体とを分けました。今まで私たちは個人に関することについて述べてきましたが、次に移って団体に関することを理解することにします。キリストは御霊によって内側におられるのですから、私たちの諸々の関係はこの事実によって支配されなければなりません。これは二、三のことを意味します。

 第一にそれが意味するのは、相互の関係の基礎を、最終的な支配法則として、理解し、据え、定着させなければならない、ということです。キリストはすべての信者の中におられます。もし彼らが真に新生しているなら、キリストは御霊によって内側におられます。私たちは信者として、これが私たちの関係の基礎であることに関して、明確に決着をつけなければなりません。私たちがお互いを見る時、私たちは外側の見かけによって支配されてはなりません。私たちの諸々の関係は今や私たちの内側におられるキリストという基礎に基づきます。これは確立された事実です。そこから私たちは始めます。

 それが行動において意味するのは、私たちはこの基礎を保たなければならず、人々の性質によって動かされてはならない、ということです。これは出会う人の種類にしたがって、二つの方法で働きます。人々が素晴らしく、親切で、思いやりがあり、紳士的で、思慮深く、公平なら、もちろん、すべてはとても容易です。彼らとやっていくのは難しくありません。しかし往々にして、これによって人々は純粋に天然的な水準にもたらされ、悲惨なことになります。かなりの被害がそれによって生活の中に生じます。素晴らしい人々が集団の中心になり、他の人々はそのような人々に付いて行きます。彼らがあまりにも素晴らしいからです。しかし最終的に、それは禍を意味します。互いにやって行く時、私たちは互いの素晴らしさに心を奪われてはなりません。それによって決して影響されてはなりません。それはとても危険です。この面の性質は相互の関係の基礎ではないことに注意してください。アブサロムはとても素晴らしい人であり、キスや麗しい言葉でイスラエルの人々の心を勝ち取りました。おそらく彼は見た目の良い人だったのでしょう。しかし、あなたはその結果を知っています。

 他方、人々がそれとは反対の意味で元々いかなる者なのかによって、私たちは支配されてはなりません。私たちの関係は、互いの内に見る大きな難点や、それに対して自然に反発してしまうものによって、支配されてはなりません。私たちは互いに手を切って、「一緒にやって行けません」と言ってはなりません。さて、これはとても実際的です。それは私たちに何かを要求します。人々の性質は全く私たちの関係の基礎ではありません。

 いずれにせよ、私たちは人々の性質によって支配されてはなりません。これは彼らが主の子供たちである場合の話であって、キリストが内におられるという基礎に基づきます。


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聖霊に対する服従

 第二に、これは信者にとって、御父の霊の訓練に服さなければならないことを意味します。この訓練により、私たちは子たる身分、あるいは成熟に達します。それは、もちろん、霊的知性、霊的力、霊的豊満を意味します。これは大まかな説明です。これを分解することにしましょう。

 私たちは御霊による御父の訓練に服さなければなりません。御父の霊は、子たちを扱うように私たちを扱われます。聖霊はこの訓練の働きに取りかかられます。それはへブル人への手紙では懲らしめと呼ばれています。その意味は子供の訓練に他なりません。この働きは極めて明確です。私たちが主との内なる合一のこの命を受け入れようとするなら、聖霊は私たちを取り扱われます。私たちは五分間でこれを卒業することはありません。とても多くの人が抱えている問題は、それがあまりにも遅く思われるため、彼らがこの問題を排除してしまうことです。慰めを受けるために次のことを覚えておきましょう。すなわち、主は通常、「主は自分に何をなさっているのだろう」と心配している個々の人から御自分を隠しておられるのです。自分が進歩しつつあること、とてもよくなりつつあることをあなたが知ったなら、あなたはその経験に栄光を帰して、それを大仰なものにし始めるでしょう。この自己がどれほど神の聖なる事柄を侵害するのか、また、その恐るべき高ぶり――これは大いに忌むべきものです――により、常に貴い実を駄目にし、それを取って自分のために得ようとしているのか、ただ神だけが御存知です。ですから、主は通常私たちから隠れておられます。そして私たちの感覚は大いによくなって行くよりはむしろ大いに悪くなって行きます。ますます豊なって行くよりはむしろますます乏しくなって行きます。もしかすると、私たちが昔感じたのと同じようには感じておらず、かつてなかったほど悪く、乏しく、貧しく感じているのは、主が働いておられる印なのかもしれません。

 要点はこうです。すなわち、自分自身の立場ではなくキリストの立場に基づいて生きることに関して、私たちは聖霊のこの訓練の御業に服さなければならないのです。それは一つの過程、一つの長引く過程になるでしょう。私たちがこの地上にいるあいだ、たとえ私たちがどれほど長くここにとどまったとしても、この過程は決して終わらないかもしれません。私たちが携え上げられるその瞬間、大いなる完全化の御業が加えてなされるのかもしれません。それにもかかわらず、多くのことがその短い時間に集中してなされるにせよ、あるいは、私たちの応答の遅さや、もしかすると反逆を主は考慮しなければならないため、その過程の期間を長く延ばさなければならないにせよ、次の事実は残ります。すなわち、聖霊は私たちに、自分自身の立場に基づいて生きることとキリストの立場に基づいて生きることの違いを教えてくださるという事実です。ただしそれは、私たちが聖霊にそうしていただくならの話です。


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内なる命の法則によって歩む

 これにも幾つかの段階があります。一つはこれです。すなわち、聖霊はキリストを内側にもたらして下さったのですから、私たちはそれ以降、主と共なる新しい歩みによって生活行動しなければなりません。私たちは彼が歩まれたように歩まなければならない、私たちは彼が歩まれたように歩むべきである、とヨハネは言いました。彼はどのように歩まれたのでしょう?御自身の歩みに関する彼御自身の言葉はまったく明らかです。すなわち、彼は御父の中に住み、御父の中に自分の命を持ち、御父によって生き、自分自身からは何もせず、御父がなさることは何でも行ったのです。それは御父にあって歩む、慎重かつ絶え間ない歩みでした。言い換えると、御父との内的な関係と交流、交わり、一体性によるものでした。このように彼は歩まれました。ですから、私たちの生活はあらゆる点でキリストとの内的歩みによって行動するものでなければなりません。その歩みは外的命令、外的組織による歩みとは異なります。クリスチャンならそれに順応するよう期待されている、あるキリスト教の組織があります。それは設立・確立されているものであり、クリスチャンとして私たちはそれに順応して当然と思われています。それは最初に考慮すべきことではありませんし、誤りに導くかもしれません。私たちの歩みは、第一に、外的規則・組織・命令にしたがったものではありません。私たちの生活は主と共なる内的なものでなければなりません。今や、すべては内側から、内なる主から発しなければならないことを、私たちは理解しなければなりません。これは言葉が伝えるよりも遥かに多くのことを意味します。

 いくつか例を挙げて、これを説明することができます。エルサレムに本部がある、完全に確立されたユダヤ教の組織がありました。そして、一人のユダヤ人として、主イエスはそれに完全に順応してその支配に服するよう期待されました。ですから、エルサレムで祭りがある時、彼の兄弟たちは「あなたは祭りに上って行って、自分を公に示すべきだ」と彼に言いました。「恥ずべきことが何もないなら、どうして人目を忍んで離れているのですか。実際、もし上って行かないなら、アブラハムの不実な子と見なされるでしょう」。人間的理屈のあらゆる観点から見て、彼は上って行くべきでした。確かに彼は誤解されるでしょう。しかし、これに加えて、他のありとあらゆる意見もありました。もし上って行かないなら、他の人々は道に迷って躓くのではないか、また、結局のところ、これは神御自身が設けられた組織であり、神に由来しているものではないのか?等々。彼の返答は「あなたたちは上って行きなさい(中略)私は上って行きません」でした。彼らが上って行った時、イエスも上って行かれました。これはとても単純であり、その意義を見落とすことはありえません。これはただ次のことを示しています。すなわち、彼は外側で確立されたいかなるものにも支配されることを拒み、主によって、御父によって支配される立場の上に立たれたのです。「父よ、あなたは私がそこに行くことを望んでおられるのでしょうか?私にそうするよう期待しておられるのでしょうか?それは為すべきことなのでしょうか?それは受容・確立された秩序に順応する問題でしょうか?」。そこに行くことを御父が望んでおられることがわかるまで、彼は動くことを拒みました。そして、それがわかった時、彼は上って行かれました。その前ではありません。人々がそれについてどう思っているかは問題ではありませんでした。彼を内的に支配していたのは御父であって、自分に課せられたもの―― 一般的に受容・確立されているもの――ではありませんでした。

 内住のキリストは信者をこの基礎の上に置かれます。それ以降、キリスト教――この世の秩序・組織として構成されてきたものであり、内なる主にはよらないもの――に支配されてはなりません。聖霊は降臨してこれを行い、これをもたらされました。すなわち、私たちが内なる主によって生きるようにして下さいました。これが意味するのは、もちろん、内なる主を知ることです。


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信者の主要な包括的義務

 これを理解する時、信者たちは内なるキリストに関してある義務を負うことになります。第一の包括的義務(さらに多くのものを含む義務)は、信者は新生以前の立場とそれが意味するすべてのものを放棄しなければならないということです。これは、信者は生来の在り方という立場を全て放棄しなければならない、ということを述べる別の方法に他なりません。主イエスは偉大な数々の真理を具現化するのにとても単純な比喩を使われました。彼は御自身が具現化している真理がいかなるものなのかを決して話されませんでした。なぜなら、霊的理解力が全くなく、聖霊も来臨していなかったからです。その後、聖霊が来臨された時、彼が述べた断片的言葉が光で照らされて拡充されました。彼は天然の立場を捨てるというこの偉大な真理をすべて数語の短い言葉の中に詰め込まれました。「誰でも私について来たいのなら、自分自身を否み、日毎に自分の十字架を取り上げて私に従いなさい」。「自分自身の十字架を負って私について来ない者は、私の弟子(教わる者)になることはできません」。「自分自身を否む」!この句を握りしめて自己否定について語り、それをあらゆる種類の事柄に適用することもできますが、主イエスがこの御言葉で言わんとされたのは、天然の命の立場全体を拒絶して、それによって全く支配されないことです。キリストはそれを十字架によって断ち切り、それに反対して十字架を据えられました。そして十字架の意味によって、生来の私たち自身であるすべてのものに対して、「ここにあなたの立場はありません。あなたはここでは支配できません」と仰せられました。これを行う時、あなたは彼の弟子になることができます。つまり、彼から教わる者になることができます。彼の学校に入学して、この立場ではなく彼の立場に基づいて生きることの何たるかを学ぶことができます。新生以前の立場を放棄してキリストの立場にとどまることが、私たちの包括的義務です。

 ここでもまた主イエスは、彼の立場に基づいて生きるというこの偉大な真理を、絵図的形式で述べておられます。「私の中に住んでいなさい」。「ぶどうの木の中に住んでいなければ枝は自分では実を結ぶことができないように、あなたたちも私の中に住んでいなければ実を結ぶことはできません」。この絵図は完全に明らかであり単純です。しかし、彼が何について述べておられたのかを示す後の御言葉による、聖霊の全き照らしが必要です。キリストの中に住むとはどういうことでしょう?それはあなた自身の中に住むことではありません。それはあなた自身の外側に出て彼の立場に着くことであり、それは彼がすべてを支配するためです。これはとても単純ですが、必要不可欠です。


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