「その時、彼は私に言われた、『人の子よ、さあ、北に向かって目を上げよ』。そこで私が北に向かって目を上げると、見よ、北側の祭壇の門の入り口に、この妬みの像があった」。

妬みの像

 「彼はさらに私に言われた、『人の子よ、あなたは彼らが行っていること、すなわち、イスラエルの家がここで犯している大いなる忌むべきことを見るか?これは私を聖所から遠ざけるものである』」。

 神は、言わば、内なる部屋から、その王座の場所から退かれたが、いけにえを物語る祭壇のそばにまだ立っておられた。高度な祝福は退いたが、神とまみえる地点としてまだ青銅の祭壇があった。神はほむべきかな、神の民が聖さをまったく気にかけていない時でも、義認は残っているのである。

 「しかし、さらにもう一度向きを変えよ。そうするなら、さらに大きな忌むべきことをあなたは見るだろう。そして、彼は私を庭の入口に連れて行った。私が見ると、見よ、壁に一つの穴があった。彼は私に言われた、『人の子よ、さあ、壁を掘れ』。そこで私が壁を掘ると、見よ、一つの入口があった。彼は私に言われた、『中に入って、彼らがここで行っている邪悪な忌むべきことを見よ』。そこで私は中に入って見た。すると見よ、這うものと忌むべき獣のあらゆる形や、イスラエルの家のすべての偶像が、周囲の壁に描かれていた」。

 そこには復讐を招く汚れがあった。それらは通常の方法で幕を通って中に入ろうとしていたのではない。それらは至聖所の中に侵入していたのである。実際に、神の内なる住まいの中に入り込んでいたのである。この内なる住まいは、神が、この宮の聖別の時、その栄光の輝く雲によって所有されたものだった。しかし、それらはその黄金の壁に欲望と偶像崇拝のあらゆる忌むべきものを描いていたのである!

 「また、イスラエルの家の長老の七十人がその前に立っており、彼らの間にシャパンの子ヤザニヤも立っていた。それぞれ香炉を手にし、その香の煙が厚い雲のように立ち上った」。

 彼らは言わば、至聖所から神を排除して、そこに彼らの偶像を描いた。それらの偶像は、世人が見るにはあまりにも汚らわしく不愉快なものだった。しかも、密かに、彼らは壁の一つの穴から中に入り、それらの言葉にするのもはばかられるものに香を捧げていたのである。

 誰でも見ることのできる外庭では、祭司たちがイスラエルの通常の儀式の形式を依然として執り行っていた。毎朝毎晩、小羊の煙が祭壇から立ち上り、その横には祭司職の聖なる衣をまとった祭司が立っていたのである!そこに、まさしくそこに、恐ろしいほど神の近くにいた神の祭司の汚れた目には見えなかったが、祭壇の神がおられたのである――忌むべきものを描かれた至聖所から神は追い出されていたのである。

 「そのとき彼は私に言われた、『人の子よ、イスラエルの家の長老たちが暗い所で行っていること、各々その想像の部屋で行っていることを見たか?』」。

 きっと、これに解釈の必要はないだろう。外庭に偶像があり、聖所の内側に偶像があり、至聖所の中にもあったのである。


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即時的清め

 しかし、神は次のことを要求しておられる。「主の器を運ぶ者たちは清い手を持たなければならない」。私は確信しているが、紛れもなく神の子供である者たちの多くの奉仕からほとんど実が生じない一つの理由は、彼らが低い水準の生活をしているのに、奉仕や奉仕らしきものの中に居続けていることである。

 さて、私は短くこの二つの事柄――聖別と関係している汚れと清め――について取り上げたいと思う。

 1.第一に、不愉快な問題だが、汚れについて見ることにしよう。われわれの聖書のエゼキエル書八章に向かうことにしよう。もしかすると、われわれはこの章から先に進む必要はないかもしれない。あるいは、せいぜい、他の節の一つか二つを見れば、汚れに関する聖書的観念がわれわれの心に示されるかもしれない。

 「第六年の、第六の月、その月の五日に、私が私の家に座し、ユダの長老たちが私の前に座していた時、主なる神の御手がそこで私の上に下った。私が見ていると、見よ、火の光景のような姿があった。彼の腰から下の光景は火であり、彼の腰から上は輝きの光景のようであり、琥珀の色のようであった。彼は手の形をしたものを伸ばして、私の頭の房をつかんだ。そして霊が私を地と天の間に引き上げ、神のビジョンの内に私をエルサレムに連れて行き、北に面した内側の門の扉へと至らせた。そこには、妬みを引き起こす妬みの像の座があった」。

神のビジョン

 ここで一言述べさせてもらいたい。この「妬みの像」は偶像に他ならなかった。エゼキエルは霊の中で宮の中に入った。そして、北側の扉から祭壇に向かって覗いて見たところ、彼は宮のまさに外庭の中に偶像が設置されているのを見い出した。その宮はかつて神に対して聖別されたものだった。

 「見よ、イスラエルの神の栄光がそこにあった」。

 それは栄光にふさわしい場所ではなかった。シェキナにふさわしい場所は、至聖所の中の箱の上の、ケルビムの間だった。なぜ栄光が宮の至聖所から退いて、そこにとどまっていたのか、われわれはまもなくわかるようになる。おそらく、その栄光は背教のイスラエルの目には見えなかっただろうが、忠実な預言者には見えたのである。


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御言葉

 ――「こういうわけで、これらの約束を持っているのですから、愛する人たちよ、肉と霊のあらゆる汚れから自分自身を清め、神を畏れて聖さを完成しようではありませんか」(二コリ七・一)。

 ――「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、彼は真実で義であられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」(一ヨハ一・九)。

 ――「ペテロは彼に『決して私の足を洗わないでください』と言った。イエスは彼に答えて、『もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関係もなくなる』と言われた」(ヨハ一三・八)。

 われわれは今、聖別と関係している汚れと清めについて考えることにする。

 これまで聖別の主題を、第一に宮の型を通して、第二に祭司の型を通して見て来たことを、あなたは覚えているだろう。われわれは、信者として、宮と祭司の両方である。そしてわれわれは、宮の聖別は神の永続的な臨在のためであり、祭司たちの聖別は神の奉仕のためであることを見い出した。この二重の型は、われわれ自身の聖別に関してわれわれに教えるものだった。

 さて、宮も祭司も決して再聖別されなかったことが真実である一方で、ああ、両方ともしばしば汚されたことも真実であり、それが起きた時はいつでも、その汚れからの清めが必要不可欠だった。汚れた祭司は依然として祭司だった。確かに、彼は生まれつき祭司だったのであり、聖別は彼を祭司職に、その機能の行使へと就かせる儀式にすぎなかった。ちょうど、生まれつき王子であり、王権を持って生まれた人を、支配者の位に就かせる即位式のようなものだったのである。われわれが祭司なのは新生によってであり、聖別はそのようなわれわれの奉仕への扉を開くものにすぎない。汚れはこの奉仕の特権を差し止める。汚された祭司は奉仕することを厳しく禁じられた。

奉仕の禁止

 汚された祭司は、清められるまで、神の事柄に奉仕することを厳しく禁じられた。しかし、清めの方法は再聖別ではなく、それは決して繰り返されなかった。

 疑いなく、イスラエルの霊的状況が低調だった時、神の目から見て、また神の書によると、実際に汚れている祭司たちが、依然として祭壇で奉仕するようなことがしばしばあった。しかし、彼らが清くない手で神に仕えることに固執することほど、神の不興を招くものは何もありえなかった。それは不埒な侮辱だったと言えよう。神の祭司の一人が汚されるのは衝撃的なことだった。汚れを負っているのに、おこがましくも神の奉仕の中に居続けようとするのは、不埒なことだった。これに関して新約聖書から引用して、神は汚れた僕からのいかなる奉仕も受けないことを示すことにしたい。神は汚れからの即時的清めのために豊かな備えをして下さっている。


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神はこの家を満たされた

 神がそこにおられることを、われわれは信じなければならない。ああ!まさにここに、多くの人は致命的断絶を抱えているのである。多くの人はまったく誠実に自分の三部分をイエスに明け渡している。しかし、御霊のいっそう豊かな現れを感じないので、疑うのである――そして、この過程を何度も何度も繰り返すのである。

 これは「奉仕のための聖別」ではないことを覚えよ。また、宮の型がわれわれに示しているのは、奉仕のための力ではないことを覚えよ。それについては、祭司の型がわれわれに示される時、考慮されることになる。それは所有のための聖別である。

 結局のところ、実際の聖書的聖別ほど単純なものがありえるだろうか?それは神をしかるべき所に置き、あらゆる場所への通行権を神に与え、それから出て行って、神に与えたものを神に支配してもらうことに他ならない。その時、神は御自分の役割を果たして下さる。神が所有して下さるのである。

 さて、いくつか質問をしよう。

 われわれは、信者として、イエスをこの宮の中にもたらしたことがそもそもあるだろうか?われわれは彼を外側の主人と見なしてきたのではないだろうか?私がこの鉛筆を取って、それで書き記すのと同じように、われわれは彼の用に供するために何かを与えるだけだったのではないだろうか?

 われわれは彼を内側にもたらしただろうか?これがわれわれの聖別に関する観念だっただろうか?われわれは彼に、一つの明確な行為によって、外庭――われわれの体――を与えただろうか?もしそうしているなら、われわれは各々、彼を聖所――われわれの心――の中にもたらして、「今ここを治めて下さい、私を、私の願望を、私の愛情を治めて下さい」と言っただろうか?もしそうしているなら、われわれは各々、一つの明確な行為によって、一度限り永遠に、彼をわれわれの霊の中にもたらして、「私の理性を治めて下さい」と言っただろうか?

私の想像力をとらえて下さい

 「私の想像力をとらえて、それに天の栄光と神の美点とを描かせて下さい。そして、それがあまりにもかかりっきりになっているものから、それを解放してください」と言っただろうか?

 またわれわれは、「主イエスよ、私のこの知的高ぶりをとらえて下さい。私はあわれな愚か者です。どうか中に入って来て、私のために私の代わりに考えて下さい」と言っただろうか?

 それから、われわれは竿を引き抜いただろうか?われわれは、「主よ、今、あなたを一度限り永遠に中にもたらして、私は竿を引き抜きます。これを来月も繰り返すつもりはありません。私は今これを行います」と言っただろうか?そして次に、こう述べてから、われわれは自ら外に出て行っただろうか?

 われわれについてはどうだろうか?この素晴らしい宮全体――体・魂・霊――はもはや自分のものではないかのごとく、われわれは生きているだろうか?それはわれわれのものだったが、われわれは外に出て、神が中に入って来られた。今や、それは神のものである。そうである時まさに、私は大いに確信しているが、神の栄光はその家を満たすのである。


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神はこの聖別を受け入れられた

 祭司たちが神をしかるべき所に置いた時、そして、神に対して閉ざされている扉がどこにもなくなった時、神はこの聖別を受け入れられた。神が外庭におられた時には何の輝きもなかった。彼が聖所におられた時、また至聖所におられた時でさえ、何の輝きもなかった。竿が引き抜かれた時でさえ、何の輝きもなかった。祭司たちが外に出て、身を引き、その場所に関する所有権をすべて放棄し、その建物を神に委ねた時はじめて、その場所は栄光で満たされたのである。そしてこれがなされるまで、何もなされなかったのである。

 昔の宮に対するシェキナの関係は、これらの宮――それはわれわれである――に対する聖霊の関係と同じであることは御存知だろう。

 ――「この方にあって、あなたたちもまた、御霊を通して、神の住まいのために共に建造されます」(エペ二・二二)。

 ――「それとも、あなたたちの体はあなたたちの内におられる聖霊の宮であることを知らないのですか?」(一コリ六・一九)。

 それゆえこれが、聖別に関する神の面についてのこの型の途方もない予型的意義である――つまり、それは聖霊の満たしなのである。これについて考えてみよ!全存在を心から、誠実に明け渡して、イエス・キリストに所有してもらうことに対する神の応答は、その人全体――霊・魂・体――を満たすことなのである。聖霊で満たすことなのである。これと比べると、人の側は何と取るに足りないことか。しかしそれでも、それは何と筆舌に尽くしがたいほど重要であることか。なぜなら、御霊の豊かな臨在はそれにかかっているからである。

 友よ、われわれは見えるところによってではなく、信仰によって歩んでいる。いにしえの祭司たちはこの栄光――それで神はこの家を満たされた――を見ることができた。


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