恵みと新たな関係についての霊感

 次に、恵みは新しくされた生活を偉大な関係の刺激と霊感の下に置く。信者は赦された罪人であるだけでなく、神の子供である。これは新生による。天然的誕生が肉体の領域で実際のものであるのと同じように、新生は霊の領域で実際のものである。信者は神の子である。それは遥か昔の創造という事実によるのではなく、神聖な誕生という直接的・個人的事実による。信者はもはや自分の祖先を神からアダムを経由して辿らない。むしろ、アダムがそうだったように、介在する祖先がいない神の子なのである。

 これは信者を数々の素晴らしい特権へと導く、と信者は教わる。その特権とは御父に近づく権利、御父と交わる権利である。キリストは彼を「兄弟」と呼ぶことを恥とされない。彼は万事においてキリストと共同の相続人とされており、来るべき王国でキリストの力と栄光とにあずかる運命にある。

 恵みは信者に祭司と王という偉大な職務を与える。

 祭司として信者は神礼拝の古い形式主義から解放されて、「イエスの血により至聖所の中に入り」、時や場所を顧慮することなく、「イエス・キリストを通して神に受け入れられる霊のいけにえ」をささげる。

 儀式尊重主義から解放された信者の礼拝は、子が御父を崇める行為である。御父の聖さ、慈愛、力は無限だが、それにもかかわらず、彼は神であるがゆえに父である。そして、この祭司職は必然的に執り成しの特権を担うことになる。この信者・祭司は、自分たちのために祈らない神の家族の外の者たちのために祈る。彼はキリストのように、御父の御前で、不信の世の仲裁者であり思い起こさせる者である。

 恵みは信者に告げる。自分自身の体の肢体が自分と結合されているのと同じように、信者はキリストとしっかりと結合されているのである。「一つ御霊により、私たちはみな一つからだの中へとバプテスマされました」。「主に結合される者は一つ霊です」。


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解放の過程

 それは恐れを完全に取り除くことから始まる。信者は「あなたは律法、すなわち、あなたが自分で義なる行いができるかどうかを見るための審査体系の下にあるのではなく、恵み、すなわち、神の内なる働きの体系の下にあります。恵みは、律法が要求したけれども人には決して到達できなかった義を生み出します」と告げられる。

 信者は確信する。キリストが自分に永遠の命を与えて下さったこと、自分は決して滅びることはないことを。何ものも自分を握っている全能の御手の中から自分を奪うことはできないことを。自分の内に善い業を始めて下さった方は、キリストの日までにそれを完成させて下さることを。自分の諸々の罪に関しては、それらは拭い去られ、神の後ろに投げ捨てられ、海の深みの中に埋められ、赦され、忘れ去られたことを。これは必要な最初の御業である。なぜなら、恐れの束縛の下にある者は、実際には自由ではないからである。

 次に、恵みは信者に内住の聖霊を分与する。

 外からのあらゆる攻撃にさらされ、そして、内からのあらゆる卑しい衝動の奴隷だったその性質の中に、今や全能者が宿るようになる。この内住する御方の力により、信者は罪を犯さざるをえない恐るべき必然性――その下で贖われていない命はみな呻いているのである――から自由にされる。いかなるクリスチャンも罪を犯す必要はない。もし彼が外からの教唆や、内からのいっそう巧妙な提案に屈するなら、それは彼が意図的に、あるいは不用意に、そうすることを選択したせいである。御霊は罪の力を打ち破るために臨在しておられるのである。


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われわれは党派の奴隷である

 われわれの場合はましなのだろうか?そんなことはほとんどない。理論的には、われわれは政治的に自由である。実際には、われわれは党派、党員集会、実力者の奴隷である。私の政治的信条を形成する権利を党大会の手に渡す瞬間、私はもはや絶対的に自由ではなくなる。道徳や宗教に関する私の意見、私の信念を他の人々から人づてに受け取る時、彼らが今日の人々、宗教改革期の人々、初代教会公会議の人々であろうとなかろうと、私はもはや自由ではなくなる。ある習慣が私の生活を支配するのを許す時、私はもはや自由ではなくなる。高ぶり、虚栄、野心、享楽が私の生活を支配するのを許す時、私は奴隷の中で最も卑しい者になる。私は自分では罪をやめないしやめることもできないが、まさにこの事実が私は奴隷であると宣告する。イエス・キリストは奴隷たちの世に来て下さった。

解放者キリスト

 興味深いことに、地上における彼の使命に関する彼の最初の公式宣言は、生活のまさにこの点に触れるものだった。ナザレのシナゴーグの中で、預言者イザヤの書が彼に手渡された。そして、「主の霊が私の上におられる。なぜなら、彼は私に油を塗って、虜にされている者たちに解放を(中略)告げるようにされたからである」と記されている個所を彼は見つけられた。

 彼は罪に対するわれわれの隷属から開始される。そしてここで彼は最初の困難に遭遇される。彼が解放しようとしている人は奴隷であるだけでなく、有罪宣告を受けた奴隷でもあるのである。その人は売り飛ばされる奴隷だが、首には絞首索が巻かれている。誰がこの人を贖うのか?否、むしろ、「誰がこの人を贖えるのか?」と言った方がいいだろう。その人の兄弟ではない。なぜなら、彼もまた首に絞首索が巻かれている奴隷だからである。「この奴隷、この人のための代価は何か?」。どの人に対しても一つの代価しかない。

 この奴隷たちを贖おうとする者は誰でも、彼らの代わりに死ななければならない。明らかに、一度も罪を犯したことのない者、完全に自由な者だけが、身代わりとして受け入れてもらえる。これらの必要条件を満たした存在は、これまでひとりしか現れなかった――すなわち、イエス・キリストである。そして、まさにこの代価を支払うために、イエス・キリストはこの地上にやって来られたのである。彼自身の命、想像を絶する彼自身の苦難という犠牲を払って、彼は聖なる律法の要求を最後まで満たし、罪の奴隷たちを死から贖われる。

 彼らは律法の呪いから自由になったのか?然り。罪の習慣からはどうか?否である。

 次に、この偉大な贖いの諸々の過程が始まる。これらの過程は内なる生活の領域の中で進行する。その目的は性格を変容させ、罪の支配から完全に解放することである。


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御言葉:「ですから子があなたたちを自由にするなら、あなたたちは確かに自由なのです。」ヨハ八・三六

 現在人々の間に最も広まっている一般的な幻想は、自分たちは自由であるという考えである。隷属や束縛に関する非難ほど、迅速かつ熱烈な憤りを引き起こすものはない。自由な人は一人もいない。神に感謝すべきことに、数百万の人が解放の過程の中にあるが、まだ一人として完全には解放されていない。

 パウロはローマの隊長に、自分は自由人に生まれたと告げた。彼がこの言葉を用いた限られた意味においては、それは真実だった。パウロはローマ市民だった。しかし、他のあらゆる重要な意味においては、この言葉は真実ではなかった。パウロ自身が真っ先にこれに同意するであろう。

 私たち全員と同じように、パウロは諸々の束縛を受け継いだ。何世紀もの間、あの神秘的な力である遺伝が、黙々と目にとまらぬように、彼に対する諸々の束縛を備えてきた――霊、魂、体に対する諸々の束縛を備えてきた。この世に生まれるどの魂も、ある見えざる網の中へと生まれ落ちる。その網は、何世紀にもわたって、その魂のために編まれてきたものである。その網の目とは民族的性向、民族的慣習、家族的習慣、罪、公的宗教、そして言い伝えである。

 この節の御言葉を語った時、キリストが語りかけておられた人々のことを考えてみよ。「私たちはアブラハムの子孫であって、決して誰の奴隷にもなったことはありません」。われわれがわれわれの自由について誇る時にそうするように、彼らは十分誠実に語った。しかし、その当時、彼らは政治的・知的・宗教的束縛の中にあったのである。

 政治的に、彼らはカエサルからヘロデやピラトにまで至る独裁者たちの一団の束縛下にあった。道徳的に、彼らは民族的高ぶり、偏見、無知、罪、自己意志の奴隷だった。宗教的に、彼らは伝統主義、偏見、形式主義の奴隷だった。


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平安と勝利の状態にある

 ローマ七章から八章に移ると、ローマ七章のこの哀れな人が平安と勝利の状態にあることがわかる。今、彼の証しはいかなるものか?「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」。

 新しい決意、新しい習慣ではないし、いっそう深く自己にしがみつくことや、いっそう祈ることでもない。ローマ七章の苦悩の中にある人が祈らないとでもあなたは思うのか?使徒パウロがローマ七章の中にあった時、きっと彼は昼も夜も神の前にひれ伏して祈ったにちがいない。もはや祈りや、あなたや私がなしうることや、パウロがなしえたことでもなく、神がなしうることである。

救済策の存在

 内側からさらに努めることではなく、外側からの何かを内側に注入されること――これがパウロの言わんとしていることである。そして、「ああ、私は何と哀れな人でしょう」と言いかけている時でも、霊的敗北のまさにその苦悩の中から、彼は自分の顔を上げて勝利の証しをする。なぜなら、彼は秘訣を見い出したからである。彼は言う、「キリスト・イエスにある命の霊の法則が罪と死の法則から私を解放しました」(ロマ八・二)と。

 それゆえ、この人は後に、「私にとって生きることはキリストです」と書き記すことができた。あなたや私よりも彼のことを親密に知っていたピリピ人にそう書き送ることができた。「いま私が肉体にあって生きているその命を、私は神の御子の信仰によって生きます」と彼は、試練と試みの下にある彼を見ていたこれらのガラテヤ人に言うことができた。「私の努力、私の決意、私の誓いによってではなく、キリスト・イエスにある命の霊の力、権威、法則によります」。

 彼は意志の道筋では敗北したが、自分の内におられる御霊の力によって勝利する。超人的基準は超人的力によって達成される。パウロはその力を握った。それゆえ、勝利のローマ八章がある。それを神のすべての子らは経験することができる――絶えざる勝利、平安、力の生活を経験できるのである。


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