使徒たちは主に言った、「私たちの信仰を増して下さい」。(ルカ一七・五)


 私たちの信仰が不十分な時、自分に欠けているものを求めなければならない。悪鬼に取り憑かれた少年の父親のように、「信じます。不信仰を征服するのを助けて下さい!」(マルコ九・二四)と叫ばなければならない。しかしそれでも、もっと多くの信仰を求めるこの要求では不十分である。もっと多くの信仰を求めて祈ることを願う者は誰でも、そのために自分の魂を整えなければならない。信仰の力を邪魔するものは何でも退けなければならない。落ち着いて、思い、霊、全能力を集中しなければならない。また、霊の中で自分自身の民と結びついて、内面的に害を受けたり引き裂かれてはならない。そうするなら、「信仰が与えられますように」という祈りは効力を発揮するであろう。天から信仰が与えられ、心の中に入り込める戸口を見いだすであろう。

 この節で弟子たちは、汚れた霊を追い払い、病人を癒し、主の御名の中で多くのわざを行う力を与えられていた。これを行うのに、彼らは数々の賜物を必要としていた。彼らは多くのことを成し遂げたが、これらの賜物に欠ける時や瞬間があった――つまり、主の御名を呼び求めても、本当に何かが起きるのかどうか、彼らには定かではなかったのである。こういうわけで、「あなたの御名の中で語る時、力を受けられるように、私たちの信仰を増して下さい」と彼らは主に求めたのである。

 これをどう自分に適用すればいいのだろう?もっと多くの信仰を求めて祈るべきなのだろうか?そうかもしれないし、そうでないかもしれない。大事なのは、もっと多くの信仰を求めて祈る時、決して自分自身のためにそうしてはならないということである。もっと多くの信仰を求めて祈る時、何かもっと偉大なものが教会に与えられるよう、私たちは求めているのである。これが私たちの責務であり義務である。「教会の信仰、神の民の信仰、そして特にあなたの僕たちの信仰を増して下さい。純粋な使徒的信仰を再び経験できるように!」。これが私たちの祈りでなければならない。

 悲劇的なことに、信仰の中で勇敢に何かを求める人は、教会の中にほとんどいない。求めたとしても、ほんの僅かである。これが、イエスの御名に栄光を帰す出来事がほとんどない理由である。もし信仰を持たないなら、すべては無益である。何が何でも、心打たれる経験が私たちには再度必要である。なぜなら、かつてないほど私たちは信仰を必要としているからである。この信仰を与えて下さる主に私たちはこの問題を委ねなければならないが、数々の奇跡が教会の中で再び起きるようになるよう、私たちは配慮しなければならない。なぜなら、ここにキリストの栄光と力が隠されているからである。それゆえ、もっと多くの信仰を求めて祈ろうではないか。しかし、自分のためだけに祈らないようにしようではないか。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト


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