イエスが山から降りると、大群衆がついてきた。すると、ひとりのらい病人が来て、彼の前にひざまずいて言った、「主よ、もしあなたがお望みなら、私を清めることができます」。
 イエスは手を差し伸べて、彼に触れ、「私は望む、清くなれ!」と言った。すると、らい病はただちに清められた。(マタイ八・一~三)


 一人のらい病人が、「この方は自分を助けることができる」と大きな信頼を寄せて、イエスのもとにやって来た。当時、らい病は地上で最も治る見込みのない病であった。実際、これは一仕事であった――かなり大変だったのである。人の知恵を総動員しても、このように惨めな人の単純さには遥かに及ばない。この哀れな人は苦しみ、恐ろしいほど姿が損なわれていたが、神の偉大さと力を知っていた。このように神のことを考える人は誰でも、神の御傍近くにやって来る。人々の間で最も惨めな人の一人がこのような確信を抱いて神の前に立っているのを見て、私たちは聖なる畏敬の念に満たされるべきである。

 「もしあなたがお望みなら、そうすることができます」と、この人は言った。「キリストにこの力がないはずはない」と、この人は考えた。キリストに力がないことはあり得なかった。なぜなら、キリストは神から来られたからである。今や、その力を使うことをキリストが望むかどうかに、すべてがかかっている。「もしあなたにその気があれば」は、「もしあなたに憐れみがあるなら、もしあなたに同情心があるなら――あなたは同情心を持っておられるに違いありません。もしお望みなら、あなたはそれをすることができます。私を助けるのに、それ以上のものが何か必要でしょうか?」を意味する。このように高貴な考え方が無駄に終わることはありえない。

 「私は望む」と主は言われた。「清くなれ!」。今、見よ――らい病はどこに行ったのだろう?らい病はもはやそこにはなく、消え去ったのである。このらい病人のような人が、このように子供のような心を抱く時、神が介入して下さるのである。ご自分の偉大さと力を誰でも信じることができるようになるために、神はご自分を啓示することを願っておられる。

 「神は、もしお望みなら、何でもすることができる」と私たちは信じなければならない。しかし、ゲッセマネの園で、「私の意志ではなく、あなたの御旨がなされますように」と主は祈られた。苦難の杯を飲まなければならないことをイエスは知っておられたが、それにもかかわらず、免れることを祈られたのである。すると、その時、天使が彼を力づけた。同じように、もし私たちが熱心に祈るなら、何が待ち構えていても耐えられるように、天使が私たちを静かに力づけてくれるかもしれない。そして、いつものように、主は私たちが必要としている以上のものを、私たちの期待を超えて、与えて下さるかもしれない。

 もし私たちが絶え間ない子供のような信仰をもって祈るなら、そして、もしそれが神の御旨なら、主は御業や奇跡によりご自分の栄光を現して、私たちに見せて下さるであろう。「もしあなたがお望みなら、そうすることができます」は、神を畏れるすべての人のための祈りである。そして、大いなる知恵により、主は「私は望む」と言って下さるであろう。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト


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