さて、教会の偉大さは以下の点に存します。すなわち、教会は今、この経綸において、そこで神を見いだせる所、神と会うことのできる所、神に触れることのできる所、神がご自分を啓示される所となるよう、神によって選ばれ立てられているのです。「二人または三人が私の名の中に共に集められるとき、私は彼らの真中にいます」(マタイ十八・二十)。その所で神と会い、神を見いだし、神に触れることができます。そこに神の顕現の手段があるのです。

 ですから、教会はこの経綸時代、地上に存在するよう召されています。また、来るべき世々、まさに御体となるよう召されています。この御体を通して、神はキリストにあってご自分を現し、ご自分を知らされるのです。私たちが知っているもの、一般に教会と称されているものは、このような教会でしょうか?ああ、断じて違います!しかし、これが神の御思いなのです。

 私はここのところアドルフ・ケラーの本を読んでいました。彼は世界中を旅して教会を訪問し、教会合同のために何が出来るのかを見て回りました。私は彼の本で次のような文章に出会いました、「私は認めなければならない。これまで壮麗な教会の建物の中に座すことはしばしばあった。ステンドグラスの窓や、彫刻されたパイプオルガン付きの建物である。しかし、例えば、男たちや女たちでごったがえしている、ウクライナの農夫たちの部屋の方が、『自分はキリストの教会の中にいる』と実感したのである。彼らは神の御言葉を聞くために、遠くから裸足でやって来た。このような貧しくて小さな会衆や教会は、ユーゴスラビヤの山々、オルヒニアの寂れた村々、ベルギーの炭坑区、チェコスロバキヤの宿屋や倉庫に散在しているが――これらの諸教会は我々を真に謙らせるものである。なぜなら、これらの諸教会は我々に何度も何度も、真の貧困とキリストの真の富を示してくれるからである。しかも、今日我々が知っている教会は堅固に確立されていて自己充足している教会だが、そのような教会が示し得ないような仕方で示してくれるのである」。次に、彼はこう述べます、「教会は神が当初意図された性質をもはやまったく現していないし、現すこともできないのである」。神の御心の教会と何とかけ離れていることでしょう!真の教会は、神の御旨によると、キリストご自身がおられるところ、キリストが死と復活の前に受けていた諸々の地的制約なしに御業を進めることができるところ、それ以下の何ものでもないのです。復活・昇天して高く上げられたキリスト、神がその内にあらゆる豊かさを宿らせたキリストが、真の教会の中におられます。この真の教会を特定することは不可能です。二人または三人が集められている所を見ることしかできません。あれやこれ、あるいは「教会」と称されている何か他のものを、真の教会と言うことはできません。そうです、真の教会は依然として奥義的なのです。真の教会とは積極的に表現されたキリストです。教会はキリストである以上、それは何と偉大でしょう!

 私たちに出来るのは事実を述べることだけであり、事実は以上述べた通りです。次になすべきことは、「ああ、主よ、真の教会を啓示して下さい!」と主に祈ることです。


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