もちろん、私たちは直ちに使徒の最上級表現に飛ぶことにします。「この御方に、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が代々いつまでもありますように」(エペソ三・二十一、アメリカ標準訳)。このエペソ人への手紙は歴代誌のこの描写に対応するものであり、教会はキリストのからだとして、神に選ばれた器であり、キリストの栄光と偉大さの表れとなるよう神によって定められ啓示されたことを示しています。教会は器、乗り物であり、これにより、キリストの何たるかがことごとく代々にわたって示されることになります。ある意味、実にこう言えるのです。すなわち、イエス・キリストの啓示と、神がキリストを目の前に示されることとの間には関係があると。その理由は、この選びの民を得るためです。この選びの民は神が予知して予め定められた民であり、この民により神はキリストにあって宇宙に知れわたるため、宇宙中が驚きます。「……今や、主権者たちと権力者たちに(中略)教会を通して……」(エペソ三・十)。ですから、この家がソロモンの偉大さの現れだったように、神は教会がキリストの偉大さの現れとなるように思い描かれたのです。

 この偉大さについて一望したので(もちろん、これを何らかの形で適切に理解するには、キリストの偉大さについてこれまで述べてきたことがすべて必要です)、祭壇とその供え物の偉大さについても思い出す必要があります。祭壇とその供え物はソロモンと共に登場したものでした――当時神に献げられた供え物は膨大なものでした。十字架におけるキリストの御業の偉大さは、教会がいかに偉大なものであるに違いないのかを示しています。キリストは教会を愛して、教会のためにご自分を渡されました。それは一つの犠牲であり、供え物であって、それと較べるなら、ソロモンが献げた数万の雄牛や羊も無にすぎません。この一つの犠牲はあまりにも偉大なため、予型では比較にならないのです。主イエスの十字架の御業は大いに偉大なものでした。そうである以上、これは教会がどれほど偉大なものに違いないのかを示しているのではないでしょうか?教会は主ご自身のたとえ話では「高価な真珠」と呼ばれています(マタイ十三・四十六)。それを得るために、神聖な商人である御方は自分の持ち物をすべて手放されました――この御方の持ち物「すべて」とは、この世の歴史が始まって以来、いかなる商人も手にしたことのないものでした。この御方には富も豊かさもあり、この世の造られる前から神と共に持っておられた栄光もありました。それは何か破壊しえないものであり、偉大な素晴らしいものでした。この御方は良い真珠を探しておられましたが、高価な真珠を一つ見つけると、すべてを売り払ってそれを得たのです。私たちにはこれを理解することはできません。私たちの理解力を超えているからです。しかし、御言葉にはそうあります。これは神聖な啓示です。十字架こそ教会の値段だったのです。何らかの言語を絶する理由により、教会は神に取ってそのように価値あるものなのです。キリストは教会を愛されました。「神の教会を彼はご自分の血で買い取られました」。これは明らかにとても偉大で素晴らしい事柄です。


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