世論と信仰

 俗界においては世論ほど力あるものはない。しかし神を信ずる者は、そんなものによって左右されず、万人を敵としても、ただ神のみをたよりとしている。信仰界においては、「人に従うより神に従うはなすべきのことなり」(使徒五・二九)というのが通則である。

 主は御在世の時、ある時は五千人余の人に食を与え、またたくさんの人々をいやしたもうた。このほか主イエスの御恵みにあずかったものはたくさんあった。もし主が煽動家であったならば、群衆の勢力をもってユダヤ全国を乗っ取ることは雑作(ぞうさ)なかったであろうと思う。しかし主はそんな人数をあてにしなかった。数をあてにするのが人間の長所で弱点である。いまの世は点数の多少によって勝敗を決することになっている。しかし全能の神をあてにする人は、そんなことに頓着しない。

 主は「われすでに世に勝てり」(ヨハネ一六・三三)と仰せたもうたが、しばらくして無惨(むざん)にも十字架にかかりたもうた。しからぱ主の御勝利はなんであったか。世論でもない、群衆の勢力でもない、全能の神を信ずる信仰であった。「彼ら激しく声を立てて、彼を十字架につけんと言いつのれり。ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」(ルカ二三・二三)。真理でもなんでもない。声勝ちたりとあることは世論である。信仰はかかる時にはそれに従わず、それを通じてその後(のち)に起こるところのものを見抜いて勝利を叫ぶのである。

 主は十字架につけられたもうた時に、普通の場合ならば主の御恩顧を受けた者は一揆騒動を起こすべきである。しかるにおもだった使徒さえも、主の最後を見とどけもせず、はるかに離れて見ていた。これは主の御摂理であったとは言え、なんだかあの当時の人間のいくじなしばかりであるように思われる。

 しからぱ主のよみがえりしのちに、ユダヤ全国におった数千人という人々は集まって、大示威運動を起こしそうなものであったが、わずかに五百人ぐらいの者が集まったのみであった。これは何のためであったろうか。これは福音は群集の力で宣伝せらるべきものでないとの、主のみこころであったろうと思われる。

 さればわれら純福音を宣伝する者は、人数で勝負をつけると思ってはならない。どこまでも信仰をもって行かねばならない。かのパンの奇跡後に、人々は主をたずねだした。その時主は「まことにまことになんじらに告げん。なんじらのわれをたずぬるは、しるしを見しゆえにあらず。ただパンを食して飽きたるがゆえなり」(ヨハネ六・二六)とのたもうた。世のいわゆる社会事業的なるものは、からだを満足させるためのみのものである。かかることで主を求める者は、どこまでも主にお供するものではない。またよししるしや奇跡を見て感心しても、それはその当座だけで、まことの救いに入りえざるものである。「もしモーセと預言者に聞かずぱ、たとい死よりよみがえる者ありとも、その勧めを受けざるべし」(ルカ一六・三一)とあるごとくである。まして評判や宣伝ぶりに動かされて集まるようなものは、あまりたのもしきものではない。どうしても神のみことばを土台として、真の信仰にはいるものでなければ、徹底せる救いに到達しえるものではない。「信仰は聞くよりいで聞くところは神のことばによるなり」(ロマ一○・一七)とあるから、われらは大いにプロパガンダもやらねばならぬ。しかしどこまでも、神のみことば以外に出てはならぬ。世の策士のごとく群衆心理を利用しようとして、大げさのことを言うような罪に陥ってはならない。怪しげなプロバガンダに釣られておる者は、後日必ず災いをするもので、ついにそれらによってあだ返しせられるようなことになる。されば福音宣伝はどこまでも地道で行かねばならぬ。へたと思われてもよい。堅実に行かねばならぬ。これがためには、多くの同志をなくしてもよい。派手(はで)な仕事よりも、主を喜ぱしたてまつる仕事をするには、枯れ草を燃やすようなことをせず、長持ちのするようなことをなすべきである。主は近し。主のごらんにいれて、主を喜ばしたてまつるようなことをしなくては、長年働いても何の役にもたたない。

 同労者諸君よ、諸君は世間に動かされているか。聖霊に動かされているか。世の歓心を買わんとしているか。神を喜ばさんとしているか。いまや大いに省みるべきである。(大正十三年五月二十二日)

ホーリネス教会繁盛の秘訣

 ホーリネス教会はとても世間に吹聴するような隆盛をきわめていない。まだまだきわめて幼稚なものである。教会組織にしてからようやく七年になったのみで、満で言えば学齢にも達しない年である。

 しかるに近来あちこちから、どうしてホーリネス教会は、短日月の間に著しく発達したかと、たずねて来る人がたくさんある。なるほど教会の数がますますふえ、献金額もふえて、去年も全員ひとりあて一年間の献金が二十円余になって、第一位を占めているから、何か秘訣があるように思うのも無理からぬことであると思われる。

 秘密と申すものがあるとすれば、これは公然の秘密である。何も隠すほどのものではない。予は左にそれを個条書きにして、公開することにする。

 一、われらは聖書そのままを神のことばとして信じている。
 二、ことに四重の福音、すなわち新生、聖化、神癒、再臨を特色としている。
 三、これを宣伝する教役者の信仰は、統一されているから足並みがそろっている。
 四、これを信ぜざる信者は、とうていついていられぬほど教理と実行を力説する。
 五、いっさい社会事業のごとき間接の仕事に手出しをせず、一意専心に伝道する。
 六、大いに祈祷と伝道に力こぶを入れる。
 七、恵みの体験は過分の献金として現われる。これは試金石である。
 八、信徒は熱心に証しをなし、また伝道するように訓練されている。
 九、教会政治は監督政治で、団体的に活動するように努めている。
 一○、この教会の教役者は、いちばん手当が少ない。生活のためには伝道会社をあてにせず、兵糧は敵地にあると信ずる。

 ざっと記せばかかるものである。しからぱ何教会でも右の十か条のとおりにすれば繁盛するかというに、そうとは限らない。要するに伝道の秘訣としては、教理も組織もやりかたも大切であるが、恵まれた人にあるのである。わが教役者および信者は、まだ幼稚である。しかし真剣であることだけは事実である。これも比較的にいう言葉であるが、もっと真剣になればなるほど神は祝福したもうことと信ずる。われらは人にはほめられて恐縮している。自らはいまのままではだめである、こんなことで満足してはいられぬと、ひたすらもっと主の霊に満たされんことを祈り求めている。

「中田重治小論選集」より

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世論と信仰 俗界においては世論ほど力あるものはない。しかし神を信ずる者は、そんなものによって左右されず、万人を敵としても、ただ神のみをたよりとしている。信仰界においては、「人に従うより神に従うはなすべきのことなり」(使徒五・二九)というのが通則である。...
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