キリストの内住

 いまの教会において福音的の信仰を有する者は、とにかく歴史上のキリストを説く。その十字架、その復活、その昇天等を説きはする。しかしさらに進んで、現在におけるそのキリストの実在を真に意識し、確信をもってこれを説いている者が、はたして幾千人あるであろうか。千九百年前の昔物語としてのキリストではなく、今日いまここに実在したもうキリストを説いてこそ、その証しに力がある。過去のキリストではその大説教に感銘し、その大人格に模放せんと努める者は起こっても、事実その力に触れて瞬間的に変化する体験をえることはできない。これは現在のキリストに接触して、始めてえられる体験である。むろん福音的信仰を持つ人であれば、かかるキリストの実在を理屈の上では信じもし、知ってもおろう。しかしこれを実験的に知っているのでなければ、その人の生活と奉仕の上に、いささかの変化も起こらない。組合教会の武本氏が、近ごろ異彩を放った伝道ぶりをもって、各所において大いに用いられているのは、このキリストの実在を体験されたためであることは、常に講壇や雑誌において証しせられているごとくである。キリストが「われは世の終わりまで常になんじらともにあるなり」(マタイ二八・二○)と仰せられたのは、われらが常住坐臥一瞬時といえども、忘れてはならぬ約束である。

 キリストはただにともにいましたもうのみならず、またわれらのうちに住みたもうのである(ヨハネ一四・一七)。「われ彼らの中に宿り、また歩まん」(Ⅱコリント六・一六)とは、もとイスラエル人に対する約束が、霊的イスラエルたるキリスト者には、現在霊的において成就するごとく、この約束もわれらには個人的に霊的実験として体験されることである。されば「なんじらは生ける神の宮なり」とある。

 キリストの内住。これは実に奥義中の奥義である。「これ神のことば、すなわち世々隠れていま神の聖徒に現われたる奥義を宣べ伝えんとてなり。……異邦人のうちなるこの奥義……この奥義はなんじらのうちにいますキリストにして……われらはこのキリストを伝え」(コロサイ一・二六~二八)。約束に属するすべての契約にあずかりなき異邦人が、キリストの血によって救われ、生来の罪の性質までもきよめられて、その上にキリストがそのうちに宿りたもうとは、実に驚くべき奥義中の奥義である、世々隠れていたことで、旧約にも啓示していないが、新約の聖徒の体験される大いなる特権である。しかもこれも他のすべての恵みと同じく、信仰によって体験せられることなのである。パウロはエペソの信者のために、「またキリストをして信仰によりてなんじらの心におらしめ」云々と祈った(エペソ三・一七)。しかしこれは「霊をもって内の人を強くすこやかに」せられた者のみが体験することができることである。しかしこれは救われた、きよめられたというような、一度きりの格段的の経験ではなく、常住連続する体験である。きよめを維持するのも、能力の流れ出るのも、また神との交通を持続するのも、要するにこの内住のキリストによってできることである。

 願わくぱ福音の教理をもつすべてのキリスト者が、このキリストの実在を体験し、意識するに至らんことを。

信に忠なれ


 「なんじ学ぴて信ずるところのことを守るべし」(Ⅱテモテ三・一四)

 東京市の電気局長の長尾半平氏は、サイベリアから帰還の兵士が自分の家に宿泊した時に、酒を出さなかったゆえに、兵士たちにいたずらをされたということが新聞に出ていた。またその反対に甲府のあるキリスト者が酒をふるまったために、兵士に感謝されたと書いた新聞もある。

 予は長尾氏がその主義に忠実なるを見て、実に敬服する。それと同時に甲府の某信者の、ふがいないのを嘆くものである。現にキリスト者の中にもこの二種類がある。後者は交際という名のもとに、不信者同様のことを平気でやっている。酒やたばこを用い、芝居見物や舞踏などを無遠慮にやっている信者がいくらもある。それを牧師が大胆に攻撃でもするなれぱ、転任を余儀なくされるようなことがままある。でも攻撃する教役者がある間は、幾分かたのもしいところがあるけれども、その教役者も俗化しているからあきれざるをえない。われらは世を相手に信仰しているのではない。神相手に信仰しているのである。「すべての人の偽りとするも、神をまこととすべし」(ロマ三・四)。この覚悟がなくては真の信仰をもちうるものではない。世間がどうのこうの、人が何と言ったかと気をもむようでは、信仰が徹底しない。

 日本はまだ野蛮の境を脱しない。偶像の祭礼の時に金も出さず、ちょうちんを出さなければ、みこしを家に打ちつけるとか、祝いごとのある時に酒でも出さなければ、親類交際をせぬとか、いろいろの難題を吹きかけてくる。または種々の宴会の際、酒飲みの割符金を出さなければ、首になるようなこともある。われらは信仰のゆえをもって、あくまでかかることと戦うべきである。信仰のためには最後、いのちまでも捨てる覚悟で進むべきである。ことに全ききよめを信ずるホーリネス人は一歩も退いてはならない。

「中田重治小論選集」より

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キリストの内住 いまの教会において福音的の信仰を有する者は、とにかく歴史上のキリストを説く。その十字架、その復活、その昇天等を説きはする。しかしさらに進んで、現在におけるそのキリストの実在を真に意識し、確信をもってこれを説いている者が、はたして幾千人あ...
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