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聖所への一つの新しい生ける道

 しかし、私たちは戻ってこれを部分に分けて見なければなりません。これに関する聖書の基本的な節は「こういうわけで、私たちはイエスの血によって、大胆に聖所へ入ります。それは、彼が私たちのために、一つの新しい生ける道を開いて下さったからです」というものです。聖所への一つの新しい生ける道。創世記三章は閉ざされた扉で終わります。彼らはエデンの園から、パラダイスから追放されました。何なら――当時の天から追放された、と言っても構わないでしょう。「彼は人を追放された」。彼は門、入口のところにケルビムを置いて、入口を守らせました。彼らは追放されました。扉は閉ざされて、かんぬきがされました。彼らは排除されました。次の章では(もちろん、原典には章はありません)ただちに次のことが始まります。すなわち、一人の人が登場するのです。その人は立ち返る道を見い出し、閉ざされた扉を通って中に入り、ケルビムをものともしません。彼は神の御前に出ても死ぬことがなく、開かれた天にとどまることができます。「主はアベルと彼の供え物を顧みられたが、カインとその供え物は顧みられなかった」。次の言葉に注意して下さい、「そしてカインは言った、『あなたは今日わたしを追放されました』」。「私は追放されました」が、彼の弟のアベルは中にいました。アベルは中に入り、開かれた道を見い出し、受け入れてもらえました。彼は神に受け入れられました。まさに神の臨在の中に受け入れられたのに死ななかった、と言っても構わないでしょう。

 私たちが読んだ聖書の御言葉から気づいたでしょうが、これがこの血の意義全体への鍵です。神がおられる所にまさに入るというこの問題が視野にある時は常に、それは生か死かの問題です。一方において、「彼は死なない」と絶えず繰り返されています。ナダブとアビフは中に押し入って主の御前で死にました(レビ一〇・一~二)。アロンは中に入りましたが、神の臨在に対する神聖な指示に従ったので、死にませんでした。たとえ大祭司のアロンでも、この備えがなければ、自分の息子たちと同じ運命に会っていたでしょう。その備えとは尊い血です。神の臨在への道を開くのはこの血です。そして、この道は生ける道であって、死の道ではありません。


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