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彼のいのちによって救われた

 そして、これは私たちの注意を、「キリストの血」という言葉が持つ、復活に関するいっそう広大深淵な意義に引きつけます。なぜなら、「血はいのち」であり、私たちをすべての罪から清めるのは彼の贖いの死だけではなく、彼の復活のいのちでもあるからです。私たちは彼の死によって救われるように、「彼のいのちによって救われます」。出エジプト記の昔の予表の一つに、次のようなものがあります。モーセは山のふもとで雄牛をほふり、その血を祭壇上に注ぎ、血の一部を鉢にとって民の上に注ぎました。それから、モーセはそれを持って山に登り、そこで神とまみえ、血のゆえに受け入れられました。この二番目の血の効力は、キリストの復活のいのち、一度捨てられた後ふたたび取り戻されたいのちを示しているように思われます。ですから、私たちは感謝に満ちた愛をもって私たちの復活の主の勝利を祝い、いのちの君、生ける方を賛美します。主は今、死を征服した方として、また新しいいのちの所有者として生きておられます。主は、彼の死と復活にあって彼に結合されるすべての人に、この新しいいのちを与えて下さいます。

 5.内住するいのち――このいのちは彼ご自身のためではなく、私たちのためです。死人の中からよみがえった彼は、今わたしたちのもとに来て、私たちの中で再び生きて下さいます。これこそ、ヨハネ第一の手紙の中に記されている聖化の秘訣であり、この手紙に関する難問をすべて解く鍵です。おそらく、新約聖書の中で、この手紙ほど聖潔の問題について多くの矛盾らしきものを抱えている書はないでしょう。たとえば、第一章では「もし自分に罪はないというなら、私たちは彼を偽り者としているのであって、彼の御言葉は私たちのうちにありません」(八節)と言っているのに、その少し後のところでは、「神から生まれた者はみな罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができません」と言っています。さて、これらの御言葉はどうすれば調和させられるのでしょう?それはまったく簡単です。第一に、人間である「私たち」が罪を持っており、罪を犯したのは事実です。私たちの内には何の善もありません。私たちは自分を無価値で無力なものとして放棄しました。しかし他方、私たちは彼を自分のいのちとして受け入れました。彼のいのちには罪がありません。彼が私たちの内に植えられる種は、美しい球根や花――たとえ不潔な土地に植えられても、周囲の土壌によって汚されることなく、天使の翼のように清らかに成長する――のようにしみがありません。それは他の要素に属しており、それ自身の性質は元々本質的に純粋です。


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