| 11 | 07 |
| 2019 | |
さて、これにより次の問題が私たちに生じます。すなわち、神は状況によって何を意図しておられるのかを知ることを祈りの中で求める、という問題です。神は状況によって何を意図しておられるのかを、深い心の慮りと苦しみを通して知ることが、私たちの訓練です。私たちはより高い命の水準に到達しました。ですから、執拗な祈りの二番目の点は知識です。第一が道徳的命であり、知識が第二です。自分自身を神の御手の中にまったく委ね切っているのに、明らかに矛盾する奇妙な経験の中に導かれる人々がいます。主がなさりたいことに関する明確な感覚があるかもしれませんが、それを行うのは到底無理なのです!開けた道はなく、扉はすべて閉ざされています。遅延に次ぐ遅延!主は何をなさっているのでしょう?それが及ぼす第一の効果は私たちを祈りによって発達させること、私たちを執拗さによって拡げることであるにちがいありません。私たちはそれを諦めることができません。それを主にすべて任せよう、と私たちは決意するかもしれませんが、自分がそれに何度も戻ってしまうのを見い出します。また、私たちが無関心でいるのを主は許されません。主は私たちの側に、いっそう豊かな知識と理解力を求めておられます。これは私たちに対する主のすべての道と密接な関係にあります。そして、もちろん私たちが経験的に知ってはいるものの、おそらく自分の心にもっとはっきりと銘記すべき一つのことは、本や講義から神の諸々の原則を学ぶことはできないし、霊的知識を得ることもできない、ということです。それらを知る唯一の方法は産出の過程によります。まず第一に、受胎しなければなりません。これは内的な事柄です。次に形成、そして次に苦しみを経て誕生に至らなければなりません。これは生命過程です。神聖で霊的な事柄をマニュアルから学ぶことはできませんし、聖書から学ぶこともできません。聖書にあることを学ぶ唯一の道は生ける経験によります。聖書は蓄音機ではなくマイクロホンです。違いは何でしょう?蓄音機は自分の中に音を蓄えたものです。マイクロホンは彼方にある何かを伝えます。聖書は蓄音機ではありません。私たちが聖書を読むことによって、私たちの理解力のために、彼方から何かが到来しなければなりません。蓄音機的な聖書知識を得るおそれがあります。つまり、本としての聖書を徹底的に知っているかもしれませんし、極めて素晴らし分析や図表を持つこともできるのですが、依然として――生き生きとした実際的・霊的用途に関して――主にとって少しも役に立たないままかもしれないのです。
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