| 09 | 23 |
| 2019 | |
次に、人自身によって、または人自身のために、このような何物も作ってはならない、というとても明確な規定があります。この模造品はあってはなりませんし、人はそれを私的・個人的に使用してはなりません。それは常に主へのものであり続けなければなりませんし、主への聖なるものでなければなりません。そして、この規則を破ることは死を意味しました。御存知のように、あるとき、異火を献げたところ、裁きと死という結果になりました。それでここでは、もしこれを人が作ったり、その模造品を人自身のためにまた人自身の個人的目的のために作るなら、その人はその民から断たれる、と告げられています。主イエスの道徳的卓越性を模倣することは不可能です。人は自分自身の内にそれを持つことはできません。主イエスの栄光のような栄光はありません。
ここで、神は明確かつ積極的に、「主イエスの性格は無比無類です。それに人は近寄ることができませんし、それは人がなりうる最善のものとはまったくかけ離れています」と事実上述べておられます。神は主イエスの中に、他のどこにもないものを御覧になっています。そして、誰でも主イエスの功績を真似しようとするなら、それはそのような人に対する死を意味します。私たちの道徳的誇りは、神に近づくための根拠になりません。主イエスは御自身の命をお捨てになりましたが、それに匹敵するものとして、人々の側で仲間の被造物のために命を犠牲にして捨てることについて話すのは、恐ろしい冒涜です。それはひどい冒涜であり、神の断固たる徹底的裁きにあわなければなりません。だめです!神から見て、御子の道徳的卓越性に匹敵するものは何もありません。そして、それらの模造品、人が造ったもの、主イエスの特異性を認めないものは何でも、それを持ち込もうとすることを神は私たちに禁じておられます。
ですから、受け入れられるあらゆる祈りの基礎――それに基づいて私たちは御父に近づきます――は、主イエスの道徳的卓越性と栄光、恵み、徳、功績、意義という基礎です。これはとても単純ですが基本です。そして、祈りの問題で成功を収めるには、まずこれを認識しなければなりません。
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館

ここで、神は明確かつ積極的に、「主イエスの性格は無比無類です。それに人は近寄ることができませんし、それは人がなりうる最善のものとはまったくかけ離れています」と事実上述べておられます。神は主イエスの中に、他のどこにもないものを御覧になっています。そして、誰でも主イエスの功績を真似しようとするなら、それはそのような人に対する死を意味します。私たちの道徳的誇りは、神に近づくための根拠になりません。主イエスは御自身の命をお捨てになりましたが、それに匹敵するものとして、人々の側で仲間の被造物のために命を犠牲にして捨てることについて話すのは、恐ろしい冒涜です。それはひどい冒涜であり、神の断固たる徹底的裁きにあわなければなりません。だめです!神から見て、御子の道徳的卓越性に匹敵するものは何もありません。そして、それらの模造品、人が造ったもの、主イエスの特異性を認めないものは何でも、それを持ち込もうとすることを神は私たちに禁じておられます。
ですから、受け入れられるあらゆる祈りの基礎――それに基づいて私たちは御父に近づきます――は、主イエスの道徳的卓越性と栄光、恵み、徳、功績、意義という基礎です。これはとても単純ですが基本です。そして、祈りの問題で成功を収めるには、まずこれを認識しなければなりません。
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館




