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 これが教会の務めです。主の会衆は命を供給し、自分たちの内にあるこの命を生き生きと証しするよう召されています。私たちが主の御名の中に共に集まる時、それは私たちにとって命を意味してしかるべきです。主の民が彼の命の中で共に集まる所では常に、彼らの中の彼の命は新たに力づけられ、その力は新たにされます。私たちに知性は生かされ、雲は晴れ、体さえもその命の豊かさの益にあずかるようになります。おそらく主の民の中には、肉体的に疲れ、疲弊・落胆して、一日の終わりに共に集まる人々もいるでしょう。もし彼らの集まりがキリスト・イエスの中にある命の御霊によるものなら、彼らの体さえも生かされるでしょう。彼らは肉体的・精神的・霊的に新しくされて、集まりから去る時、新鮮で喜びに満ちているでしょう。なぜなら、彼らは命の中で共に集まったからです。これは、集会中ただ座ってメッセージを聞くのとはまったく違います。多くの時、御言葉の務めは説教者に任されます。そして、人々は「話が面白くて目を覚ましていられるといいなあ」と期待しつつ、説教者から何かを受けるのを待っています。誰も何も貢献していません。団結してキリストの命を握っていません。それはいつもと同じ昔ながらの習わしであり、何かを達成することを願う望みと共に始まり、常に落胆で終わります。

 さて、主は敵が御自身の復活の事実を隠そうとすることを御存知でした。主は、御自分の者たちの間で生きておられるというこの確信をめぐって、最大の攻撃がなされることを御存知でした。そこで、主は彼らと共に長い間とどまって、御自身の復活の証しを彼らの中に確立し、彼らを御自身の証し人とされました。しかし、敵の手段や方法は無数です。敵の策略の一つには二つの面があります。敵は霊的死の雰囲気であなたを包み込もうとする――そこではすべてが全く死んでいるように思われますし、信仰は空虚で非現実的なものになるよう試みられます――か、あるいは偽りの命をもたらします。敵は聖書を用いて、感情を大いに張り詰めた状態に掻き立てようとします――そこでは大いなる魂の力が働いて、御霊の奇跡に似た奇跡を生み出します。しかし、それらは嘘、偽りのしるしにすぎません。

 あることが神からであるかどうかを知る唯一の道は、「これは私たちにキリストを供給するだろうか?」と自問することです。大事なのは感情を掻き立てることではなく、キリストが増し加わるようにすることです。それは経験にしがみつくことではなく、私たちの内にキリストを知る内なる知識を造り込まれることです。すべてを試す試金石は、私たちにキリストが供給されるかどうかです。霊的死は何と身近なことか!主の復活の命に対して私たちの周りで戦いが常になされています。それは霊の命に立ち向かう霊的死です。死は極めて執拗なものであり、私たちのすべての敵の中で最後のものです。「滅ぼされるべき最後の敵は死です」。


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