10 | 05 |
2018 |
私たちの主イエスの独特な命や性質の現われについて調べるには何時間もかかるでしょう。復活後の四十日の間、彼は多くの確かな証拠や、弟子たちと共に食べ飲みすることにより、御自身が生きていることを示して、弟子たちを確立しようとされました。しかし五十日目は諸々の事実に優る最も大いなる日でした。その日、彼は御自身を彼らにとって内なる実際とされたのです。この五十日目がやって来た時、「ペンテコステの日が満ちた時」、復活した主が弟子たちの心の中に住んで彼らの命、彼らの力となるためにやって来られました。それは神の新創造でした。彼らの内におられるキリストという基礎に基づいて、彼らは彼の証し人に構成されました。
御霊の務めは命の証しです。もし私たちの務めが証しでないなら、それは真の務めではありません。務めの核心は私たちの内におられるキリスト、彼の復活の表われです。私たちはキリストを命として示さなければなりません。なぜなら、彼の中に命があったからです。私たちがこのようにキリストに仕える時、彼は私たちを通して光、自由として明らかになります。主は「あなたたちは真理を知ります」と言われました。これは光です。「そして真理はあなたたちを自由にします」。これは自由です。務めは言葉の問題ではなく、言葉によるキリストの分与です。それはキリストについての情報や、麗しい話ではありません。務めは主イエスを示すことであり、キリストが私たちを通して復活の主として現れることです。
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館

御霊の務めは命の証しです。もし私たちの務めが証しでないなら、それは真の務めではありません。務めの核心は私たちの内におられるキリスト、彼の復活の表われです。私たちはキリストを命として示さなければなりません。なぜなら、彼の中に命があったからです。私たちがこのようにキリストに仕える時、彼は私たちを通して光、自由として明らかになります。主は「あなたたちは真理を知ります」と言われました。これは光です。「そして真理はあなたたちを自由にします」。これは自由です。務めは言葉の問題ではなく、言葉によるキリストの分与です。それはキリストについての情報や、麗しい話ではありません。務めは主イエスを示すことであり、キリストが私たちを通して復活の主として現れることです。
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