もう一つの点は、私たちの側に順応性が必要であることです。これは神にとってとても重要な点です。私たちに順応性はあるでしょうか?神の御言葉の中には、順応性の原則に関する多くの例や絵図があります。使徒は奉仕に関して、「霊の新しさの中で」と述べています。その意味を知っている人がいるとするなら、彼がまさにそうでした。救われる前の昔の時代の彼の霊を見て下さい。それは個人的支配、個人的敵意の霊でした。しかし今、彼は奉仕についてこのように「霊の新しさの中で」と述べています。パウロはもはや「自己の霊」、タルソのサウロの強い自己意思の中で仕えているのではありません。そこには新しい霊があり、彼の奉仕の中に霊の新しさを見ないわけにはいきません。要点は、彼には順応性があったということです。タルソのサウロが自分を低くして、「主よ、あなたはどうされるのでしょう?」と言うまで、主は何もできませんでした。タルソのサウロがかつてそのような気持ちになったことがあるかどうかは疑わしいです。何度も何度も彼は調整しなければならなかったように思われます。彼はビテニヤに入って行こうとしました。もしタルソのサウロをその立場に置いたなら、彼は行っていたでしょう。そして、誰の導きも求めなかったでしょう。しかし使徒パウロとして、御霊の導きがそれに反対しているのを彼は知りました。それで彼は行きませんでした。さらに、彼はアジアに入ろうと思いましたが、聖霊に禁じられたので行きませんでした。その後、この内なる抑制を彼が意識していることがわかったので、主は別の行路を示されました。パウロはその行路を受け入れました。彼には順応性があったのです。
例として、十一人の弟子を挙げることもできます。この人々の順応性、彼らがどのように復活の主に順応したのかがわかります。彼らは王国に関するとても強い観念を持っていました。そして、最後まで、主が彼らと共におられた時ですら、「主よ、あなたが王国をイスラエルに回復して下さるのは、この時ですか?」と依然として言っていました。彼らは主の返答に立腹して立ち去ったでしょうか?彼らはエルサレムに戻り、先延ばしにして、そこで待ち、その新しい状況に順応しました。
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