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「イエスが上って行かれるとき、彼らがじっと天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立って言った、『ガリラヤの人たちよ、なぜ天を見つめて立っているのか?あなたたちを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたたちが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう』」(使一・一〇~一一)。

「……ついに私たちはみな、信仰の一に、神の御子を知る知識の一に到達し、一人の完全に成長した人に到達し、キリストの豊満の身の丈の度量にまで到達します。(中略)彼は肉体の中で敵意を滅ぼし、数々の規定から成る戒めの律法を廃棄されました。それは、彼が御自身の中で、二つのものを一人の新しい人へと創造して、平和を造るためであり、また十字架を通して、両者を一つからだの中で神と和解させるためでした。それによって敵意を殺してしまったのです」(エペ四・一三、二・一五~一六)。

「……あなたたちは新しい人を着たのです。この新しい人は、それを創造された方のかたちに従って全き知識に至るように、新しくされつつあります。そこにはギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人はありえません。キリストがすべてであり、すべての中におられるのです」(コロ三・一〇~一)。

「……また、実際の義と聖の中で、神にしたがって創造された、新しい人を着たのです」(エペ四・二四)。

「なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです」(ガラテヤ三・二七)。


人の子の完成

 主イエスは数々の苦難により、人の子として完成されました。彼は完全であり、罪がありませんでしたが、それでも「彼は数々の苦難によって完成された」と私たちは告げられています。彼の場合、罪の問題はなく、この問題は人の子の完成とは無関係です。人の子の完成は次の事実と関係しています。すなわち、彼には罪がなく、彼は自発的に御自身をささげて、神に頼る生活を送られた、という事実です。彼は決して自分に頼らず、自分自身の人間的願望を行わず、自分自身の人間的判断にしたがって生きず、自分自身の人間的欲望や感覚に従いませんでした。生活・行動・言葉といったいかなる事柄においてもそうであり、彼は御父から離れようとはしませんでした。この基礎に基づいて彼は、あらゆる種類の試みや試練――それは誰もが受ける可能性のあるものです――を受ける束の間の時のあいだ、服従されました。誘惑や試練に関して彼が何を耐え忍ばれたのか、どちらかというと私たちは何も知りません。彼の生涯の記録は幾つかの試練・誘惑・苦難を見せていますが、それでも、あなたも私も彼の苦しみの深さや厳しさは決して分かりません。レビ記の最初の六つの章の数々の供え物は真にキリストの型ですが、実際上、どの供え物も何らかの形で火にさらされます。こういうわけで、全焼の供え物である彼の十字架においてだけでなく、同じように穀物の供え物という意味においても、彼の純粋で、聖なる、罪のない人間生活は火によって試されたのです。これらの火によって、生きるときも死ぬときも、彼は試されました。御父への信頼、御父への従順、御父から離れて少しでも行動することを拒否すること、御父の時や御旨から出ているものは何でも受け入れること、という基礎について試されたのです。

 ゲッセマネの園と十字架における最後の恐るべき試練は、彼を打ちのめす――もし彼が打ちのめされえればの話ですが――のに十分なものでした。そしてこのような方法で彼は完成されました――完全だったのですが、完成されたのです。

 この人性、この命を彼は生きました。それは完全に神を満足させ、完全に地獄のすべての力と試みを打ち破りました。この人性とこの命は栄光へ、神の右手に上げられました。その神の右手で彼は完成された人として示されています。この人は罪がないだけでなく、試練を通して完全な度量・完全な能力にまで成長しました。これに関して、御霊は聖書を通して私たちに、「あなたたちは新生により、また信仰を通して御霊を持っていることにより、今やまさにこの命に与る者たちなのです」と告げておられます。この人性は物質的なものにすぎない、と考えないようにしましょう。それは完全な人、完全な性質に属するものであり、完全に神を満足させました。そして聖霊によって私たちに与えられ、私たちの命の最も真実で、最も内奥にある現実となっています。それは私たちに与えられたキリストであり、私たちがそのパンを取る時、私たちは次の事実を証ししているのです。すなわち、今や私たちの天然的存在という基礎ではなく、栄光の中におられるイエス御自身という基礎に基づいて、私たちは自分の生活を営んでいるのであり、自分の生活を選択しているのである、という事実です。次に、今度は私たちが試みられ、試されます。それは、キリスト、神の完全な人という基礎に基づいて生きるのか、それとも、その立場を捨てて自分自身の立場に戻り、何らかの方法で自己の立場に基づいて生きるのか、ということに関してです。これが、「私はキリストと共に十字架に付けられました……」というパウロの偉大な言葉の最も内奥にある真理です。これが意味するのは、「私」が象徴するものはみな取り除かれ、もはや私ではなくキリストである、ということです。


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