| 03 | 31 |
| 2018 | |
神に属するものがこの世にとどまっているのには三つの目的があります。いま述べているのは、危機を切り抜けてその過程の中にあるけれども、依然としてここにあるものです。ここにありますが、この地上には属していません。それがとどまっている間、とどまっているのには三つの目的があります。それぞれ三つの異なる方面に対してです。第一に神に対して、第二にそれ自身に対して、第三にこの世に対してです。
それがここにある目的――神に対する目的――は地上で神の権益を代表することです。ダビデは自分の王国を追放されてエルサレムから追われた時、祭司ザドクを契約の箱と共にエルサレムに送り返しましたが、それは、そこが彼の場所であること、また彼がいつかそこに戻って来ることの証しでした。それと同じように主は、この世から追放されていますが、戦略的に御自分の民をここに置いておられます。ここは主御自身と関係があり、この民は主の権益をここで代表しています。ですから私たちは、この横奪者の諸々の主張に対してこの地上のここで慎重に立ち向かうよう命じられています。私たちは、この世の君であるという悪魔の主張に対して異議を申し立てます。それは、正当な支配権を持つ御方の権利のためです。私たちはこの目的のために、神に対して、ここに堅く立ちます。
この目的の別の面――ここにある神に属する事柄自体に対する目的――については、神に属するものの真の性質を学ぶ目的のためです。これらの別の事柄の間にとどまっている間、私たちがこの地上に残されているのは、教育的目的のためです。そして私たちの学びの方針は、神に属する事柄の性質を学ぶことです。私たちには学ぶべき学課がたくさんあり、知るべき事柄がたくさんあります。それは、人に属するものと神に属するもの、アダムに属するものとキリストに属するもの、地に属するものと天に属するもの、肉に属するものと御霊に属するものの違いについてです。私たちの学びはこの方面におけるものです。
それはとても経験的・実践的事柄です。もしあなたと私が突然天に引き上げられていたなら、すなわち、救われた瞬間天に移されていたなら、私たちは神に属するすべての事柄の性質を直ちに完全に知るようになっていたでしょう。しかし、今はわからない方法で知るようになっていたでしょう。別の言い方をすると、もしそうだったなら分からなかったような方法で、私たちは今それを知るようになりつつあるのです。もしそうだったなら、私たちはそれを客観的なものとして、自分たちの周囲の至る所で確立されているものとして知るようになっていたでしょう。そして、そのような方法でその中に入っていたでしょう。しかし私たちはここに、相争う諸々の要素の中に残されており、それによって私たちはそれを経験的な方法で学びつつあります。そして、それは苦難を通して、矛盾を通して、訓練を通して、膨大な内的歴史を通して、私たちの中に造り込まれつつあります。それは私たちのまさに存在中に造り込まれつつあります。これが御民を教える神の方法です。これは最も有益な方法です。そうでなければ、神は別の方法を取っておられたでしょう。
次に、神に属する事柄がここにある目的――人に対する面――については、それは証し(testimony)と証し人(witness)の問題です。この二つの言葉は同じことを意味しません。証し人は道具であり、証しは証し人によって与えられるものです。主は真理の化身である何かをここに持たなければなりません。それは化身であるので、真理を示します。これが証し人と証しの違いです。私たちが人に対して、この世に対して、地上のここにいるのは、真理の化身・表現になるというこの目的のためです。
ですから、次のことがわかります。主は、本質的であり全く御自身に属するものを、一時の間ここに残しておられますが、これはそれをここに定住させるためではありません。それをここに確立するためではありませんし、それをここで事物の一部とならせるためでもありません。そうではなく、それがここにあるのは神の諸々の目的のためです。そしてそれらの目的がある点に達して、主が御自身の知恵と主権により「その器を天に移した方がよい」と見なすようになる時、主はしかるべき行動を取られます。
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