戦いと論争のこの領域において、とても多くのことを伝える一つの句があります。それは福音的クリスチャンの間ですら深刻な疑義が持たれている句であり、もしそれが神の御言葉の中になければ、私自身もこれが理由でそれを避けていたでしょう。しかし、使徒ヨハネが用いた一つの句によって生じた疑義を、私たちは彼に着せることはできません。そのような句を用いた時に彼が何を言わんとしていたのかを、私たちは誠実に理解しようとしなければなりません。私が述べているのは「初穂」という句についてです。「これらの者は(中略)小羊への初穂として(中略)買い取られた」。

 おそらく、この句を理解する最も助けになる有益な方法は、それが言及している十四万四千人が誰かを特定することに努めることでしょう。しかしそうする前に、すなわち、この群れが誰かを特定しようとする前に、その反対の姿勢に取り組んだ方がいいでしょう。なぜなら、そのような姿勢には理由があるかもしれないからです。真理の或る特定の面があまりにも強調されすぎて、それが全体的真理と見なされるようになる時――この問題に関しては、ある集団の中で、確かにこれが起きました――反対の姿勢には常に理由があります。また、そのような誇大な強調により、主の民が分裂して、排他的な優越感を抱く結果になることが許される時、それを疑って逆の態度を取ること、少なくとも反対の立場を取ることには一理あります。さらに、間違った点に強調点が置かれて、必然的にバランスの崩れた状況が生じる時、その問題に対する疑問を公にするのは正しいことかもしれません。そして、この特定の問題では、まさにそれが起きたのです。諸々の用語が造られましたが、それらは間違った点を強調するものであることが直ちに明らかになりました。例えば「携挙」という用語と、それと共に「選択的」というあのもう一つの言葉です。この用語は確かに間違った点を強調しています。このような句が使われる時、私たちは的を外します。この用語を造ってそれを用いている人々によって導かれた結論は、からだの分裂を意味します。主が御自分の勝利の喜びと恵みにより、誰かを臨在の中にもたらされる時――主はこれを私たちの生活でほぼ毎瞬行って下さっています――私たちは決して「あなたはからだの中に分裂を生じさせています」と主を責めることはしません。もし私たちがこれを知ってさえいれば、今この時、世界中の無数の場所から、神の子供たちはその臨在の中へと召す輝かしい召しに与っているところだったでしょう――言わば、集団全体が直ちに上っているところだったでしょう。主は残りの者たちを少し長く残すことによりからだの中に分裂を生じさせる、とは私たちは決して思いません。間違った点が強調されてきました。この間違いを直ちに取り除きましょう。なぜなら、それはまったく間違った前提だからです。


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