愛する人よ、教会について述べる時、私たちはキリストのからだの肢体であること、そして、全体に言えることは各部にも言えなければならないことを覚えておこうではありませんか。これが勝利者です。この光に照らして、「自分は勝利者だろうか?」と私は自問しなければなりません。あなたも同じ問いを自問しなければなりません。あなたは勝利者でしょうか?この証しの光があなたを照らすとき、あなたはそれに耐えられるでしょうか?「キリストは生きておられます、キリストは死を征服されました!」と、天におられる主イエスに関してだけでなく、ありのままの私たち各自の証しとして言えるでしょうか?「あの復活の命が私の内に働いています。私はキリストの復活の命の力を知っています」と各自が言えるでしょうか?神はどん底の経験を通して私にそれを知らせて下さったでしょうか?キリストの復活の力の中で何度も何度も起き上がることがどういうことか、私は知っているでしょうか?私の内にある復活の主の命により死の襲撃を打ち負かすことがどういうことか、私は知っているでしょうか?自分についてそう言えるでしょうか?これが勝利者です。いかなる教会も、その個々の構成員の度量以上の証しを持つことはできません。あなたと私が、いずれかの地域教会の構成員として、常に心掛けるべき一つの事は次のことです。「ああ、主よ。単なる教えの入れ物や媒体となることから、私たちを守って下さい。私たちが命によって特徴づけられるようにして下さい。それは他の人々が中に入って来る時、そこで述べられていることを彼らが理解してもしなくても、『私にはまったく理解できないけれども、ここには命があります。ここで私は生ける主に出会いました』と叫ぶようになるためです」。私が望むのは、人々が一言も理解できないまますぐに出て行ったとしても、こう言えるようになることです。その方が、たとえ様々な事柄を知的に理解したとしても、その衝撃力を全く感じないよりは良いのです。

 主に祈りましょう。「どうか主が私たちを個人的にも団体的にも、この意味で、勝利者にして下さいますように。どうか証しが、私たちがこの世に対して、教会に対して掲げるだけのものになりませんように。そうではなく、その証しの光が私たちを照らすとき、私たちが自分自身の証しの光の中に恥じることなく立てますように」。

 その光が供えのパンの机を照らして、イエスの証しを告げました。その証しは生ける人、神御自身の御心にかなう人に関するものでした。この人は私たちの糧、私たちの命、私たちの支え、私たちの食物です。彼が生きておられるので、私たちも生きます。これが供えのパンの意義です。このようにこの光は備えのパンを照らして、私たちの命であるキリストを証しします。次に、香の祭壇は、私たちが復活した生けるキリストにあって、神へと至る開けた道、開かれた天、神との交わりを持っていることを証しします。これがイエスの証しです。これには単なる教理にすぎないものは何もありません。彼が生きておられるので私たちも生きます。私たちは彼に拠り頼んで生き、彼を通して何の妨げも受けずに生き生きと御父に近づきます。これがイエスの証しであり、主の民の間にさらに豊かに回復される必要があります。これについて祈って下さい。また、あなた自身がそれにあずかれるように、イエスがそれによって死を征服された命があなたにおいて又あなたを通して現実のものとなるように、祈って下さい。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ