勝利者たちの証し

 すでに指摘したように、これらは三つの別の事柄ではありません。それらのどれも、他のものなしでは成り立ちません。各々が互いに通じ合っています。つまり、信仰による義の状態は、それが正しく適切に理解される時、一つの地位、霊的な天的地位という結果になり、この地位は証しに導くのです。これを逆の順番で見ると、この証しは本質的に地位のおかげであり、この地位は状態のおかげです。この意義を自分の心で完全に理解することがとても重要です。イエスの証しは真理の表明ではありません。事実の宣言や、主イエス、そのパースンと御業に関する或る真理の宣言でもありません。それを言葉で表明することは可能かもしれませんし、それはこれらの事実を含んでいるかもしれません。それを口で宣言することはできるかもしれませんが、イエスの証しはそれだけではありません。それは言葉で記された定型句や信仰告白ではありません。ここに示されているように、イエスの証しは大きな赤い龍を怒らせて、あらゆる形の活動に駆り立てます――この赤い龍は悪魔やサタンと呼ばれており、全地を欺く者、兄弟たちを訴える者です――イエスの証しは彼を怒らせて、黙示録一二章にあるような姿勢・態度を彼に取らせますが、このイエスの証しは単なる言葉による証しではありません。それは、これらすべての事実が生ける霊的な方法で現わされたものに他なりません。それは、サタンが支配している領域に、このような途方もない影響を及ぼします。あるものがイエスの証しであるのか、それとも、単なる真理の表明にすぎないのかを決めるのは、その霊的有効性です。それが敵に及ぼす影響は常に、それが真の証しなのかどうかを判断する、かなり確かな方法です。それは、主の民の中の一人の人あるいは一つの団体の中の内的現実である単数または複数の事実です。それは実証済みのものです。彼らが述べ、告白し、主張していることではなく、彼らの存在そのものによって実証されているものです。彼らはそれなのです。これがイエスの証しです。

 こういうわけで、黙示録のこれらの最初の数章――そこでは勝利の生ける主が、諸教会に対して、彼らの証しに関して課題を突き付けておられます――で述べられている多くの立派な点も十分ではないことがわかります。ある方面においては、教理の表明としての真理からの逸脱はありませんでした。信仰告白を決して放棄していませんでしたし、主イエスに関する諸々の事実に依然としてしっかりと立っていました。そうです、他の多くのものは極めて立派であり、主もそのように認めておられますが、それでも、彼らが代表しているものに関して、主は満足していないことを示す「しかし」というこの言葉を語られます――「しかし、あなたに対して責むべきことがある」「しかし、あなたにはこのことがある……」。しかし!主御自身が御自分の教会の存在理由そのものを考慮される時、極めて正統的で健全な教理の表明といえども、主はそれでは決して満足できないことがわかります。主が求めておられるのは、霊の宇宙におけるその効力です。その領域に及ぼすその力です。これがイエスの証しです。


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