教会の地位

 すでに述べましたが、信仰による義の状態と、その状態に適う行いの義しさは、教会の地位という結果になります。信仰によるこの状態の結果である、教会のこの地位とは何でしょう?諸教会を取り扱うにあたってエペソが最初にくるのは、無意味なことではありません。エペソは包括的・基礎的である、という感覚があります。アジアのこれらの諸教会はパウロを通して生まれました。使徒の働き一九章を見て下さい。最初に一〇節は「アジアに住んでいる者はみな、主の御言葉を聞いた」と述べています。これはエペソから発しました。使徒の働き一九章では、パウロはエペソにいます。二六節でデメテリオは「このパウロは、エペソばかりか全アジアで、多くの人々を転向させた」と述べています。全アジアで!ここにアジアの七つの教会があります。さて、エペソは全体に対する鍵であり、核心です。

(a)キリストにあって天上にある

 それでは、教会の中心的な至高の地位とは何でしょう?それは(いわゆる)エペソ人への手紙に記されています。この手紙はエペソの教会を含む諸教会への回勅の手紙でした。この手紙では、教会の地位はキリストにあって天上にあることがわかります。これがエペソ人への手紙中に響いている基調です。まず第一に、キリストにあって天上のすべての霊的祝福をもって祝福されています。次に、彼と共に天上で座に着いています。それから天上における務めです――「今や、天上にいる主権者たちや権力者たちに対して……」。それから最後まで進むと、天上における戦いです。私たちの戦いは天上における戦いです。信仰による義の状態のおかげで、教会には天における霊的地位があることが示されています。地上の地理的・文字的観念に固執しすぎる危険性に気をつけましょう。また、美化・昇華された無価値なものに夢中になる危険性に注意しましょう。この問題はまったく、第一に、霊的地位の問題であり、霊的優位性の問題です。そしてこれは、日々の生活のほとんど毎瞬に関する問題です。つまり、天上にあるというこの問題は、往々にして皿洗いのような事柄にまで影響を及ぼすのです。皿を洗っている時でも、天上にあることが可能です。あるいは、その正反対も可能です。これは、あなたがその中でそれを為す霊次第です。不平を鳴らしてぼやき始めるなら、これは天の王国の相続者である神の子供にとって、あまりにもつまらない仕事になります。「まさか自分がこんなことをする羽目になるとは!」と思うなら、あなたは天上にはいません。しかし、「これは確かにとてもつまらない仕事です。しかし、すべてのことを神をあがめるためにしようではありませんか!」という態度を取るなら、あなたは天上にあります。これは霊的問題、道徳的問題、霊的感覚の道徳的力の問題です。これが天上の意味です。それは、私たちがどこにいても、私たちの生活の一瞬一瞬に触れます。「この死すべき体から逃れて、雲に達し、天のどこかに飛び去っていかなければならない」と考えてはいけません!そのようなことは天上にあることではありません。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ