2.さて、備えに向かうことにしよう。この備えは、同様に崇高・単純・十分なものであり、神がわれわれのために用意して下さったものである。

 まず第一に、少しのあいだ、神の御言葉の中で最も馴染み深い節の一つを見ることにしよう。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら、神は信実で正しくあられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」(一ヨハ一・九)。

 それゆえ、汚れた者になった時、われわれには清めの問題に関して為すべきことがある。「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら」。これは単なる罪深さの告白とは大いに異なっており、その重要性はそれよりも遥かに心を探るものである。われわれは罪深さの告白はたやすくする。「そうです、私は罪人です」と言おうとしない人は、われわれの内に一人もいない。

 「もし私たちが自分の諸々の罪を告白するなら」。これが意味するのはまさに、憎むべきものを一つ一つ持ち出して、それらを神に示し、「私はこのことやあのことをしました」と言うことである。親なら誰でも、子供たちから「不従順でした」という一般的告白を得るのはとても容易だが、「自分がしてきたことは悪いことでした」と言わせるのはそれほど容易ではないことに気付いているだろう。

 われわれの諸々の罪を告白することは、憎むべき罪を取り上げて、それを神の御前にさらけ出し、神にそれを見てもらうことである。神の御前に、その白光の中に、それをさらけ出すなら、罪はわれわれが誘惑に屈した時のように麗しいものには見えないだろう。

 これ――告白――が清めの人の面である。言うまでもなく、これは信者の特権である。キリストを拒絶する人が地獄に落ちるまで自分の諸々の罪を告白したとしても、その人の諸々の罪は相変わらず同じままだろう。「誰も私によらなければ父のもとにくることはできない」とキリストは仰せられる。救いには一つの道しかない――信仰の道である。しかし、信じてきたわれわれが自分の諸々の罪を告白する時、われわれは次の約束を要求することができる。

 「神は信実で正しくあられるので、私たちの諸々の罪を赦し、すべての不義から私たちを清めて下さいます」。

 最初に赦しであり、次に清めである。

 これは何と単純なことか!さて、これを私があなたに示した御言葉と関連付けよ。ペテロは「決して私の足を洗わないでください」と言い、キリストは「もし私があなたを洗わないなら、あなたは私と何の関係もなくなる」と仰せられた。他に助けはないことがわかる。


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