即時的清め

 しかし、神は次のことを要求しておられる。「主の器を運ぶ者たちは清い手を持たなければならない」。私は確信しているが、紛れもなく神の子供である者たちの多くの奉仕からほとんど実が生じない一つの理由は、彼らが低い水準の生活をしているのに、奉仕や奉仕らしきものの中に居続けていることである。

 さて、私は短くこの二つの事柄――聖別と関係している汚れと清め――について取り上げたいと思う。

 1.第一に、不愉快な問題だが、汚れについて見ることにしよう。われわれの聖書のエゼキエル書八章に向かうことにしよう。もしかすると、われわれはこの章から先に進む必要はないかもしれない。あるいは、せいぜい、他の節の一つか二つを見れば、汚れに関する聖書的観念がわれわれの心に示されるかもしれない。

 「第六年の、第六の月、その月の五日に、私が私の家に座し、ユダの長老たちが私の前に座していた時、主なる神の御手がそこで私の上に下った。私が見ていると、見よ、火の光景のような姿があった。彼の腰から下の光景は火であり、彼の腰から上は輝きの光景のようであり、琥珀の色のようであった。彼は手の形をしたものを伸ばして、私の頭の房をつかんだ。そして霊が私を地と天の間に引き上げ、神のビジョンの内に私をエルサレムに連れて行き、北に面した内側の門の扉へと至らせた。そこには、妬みを引き起こす妬みの像の座があった」。

神のビジョン

 ここで一言述べさせてもらいたい。この「妬みの像」は偶像に他ならなかった。エゼキエルは霊の中で宮の中に入った。そして、北側の扉から祭壇に向かって覗いて見たところ、彼は宮のまさに外庭の中に偶像が設置されているのを見い出した。その宮はかつて神に対して聖別されたものだった。

 「見よ、イスラエルの神の栄光がそこにあった」。

 それは栄光にふさわしい場所ではなかった。シェキナにふさわしい場所は、至聖所の中の箱の上の、ケルビムの間だった。なぜ栄光が宮の至聖所から退いて、そこにとどまっていたのか、われわれはまもなくわかるようになる。おそらく、その栄光は背教のイスラエルの目には見えなかっただろうが、忠実な預言者には見えたのである。


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