神はこの家を満たされた

 神がそこにおられることを、われわれは信じなければならない。ああ!まさにここに、多くの人は致命的断絶を抱えているのである。多くの人はまったく誠実に自分の三部分をイエスに明け渡している。しかし、御霊のいっそう豊かな現れを感じないので、疑うのである――そして、この過程を何度も何度も繰り返すのである。

 これは「奉仕のための聖別」ではないことを覚えよ。また、宮の型がわれわれに示しているのは、奉仕のための力ではないことを覚えよ。それについては、祭司の型がわれわれに示される時、考慮されることになる。それは所有のための聖別である。

 結局のところ、実際の聖書的聖別ほど単純なものがありえるだろうか?それは神をしかるべき所に置き、あらゆる場所への通行権を神に与え、それから出て行って、神に与えたものを神に支配してもらうことに他ならない。その時、神は御自分の役割を果たして下さる。神が所有して下さるのである。

 さて、いくつか質問をしよう。

 われわれは、信者として、イエスをこの宮の中にもたらしたことがそもそもあるだろうか?われわれは彼を外側の主人と見なしてきたのではないだろうか?私がこの鉛筆を取って、それで書き記すのと同じように、われわれは彼の用に供するために何かを与えるだけだったのではないだろうか?

 われわれは彼を内側にもたらしただろうか?これがわれわれの聖別に関する観念だっただろうか?われわれは彼に、一つの明確な行為によって、外庭――われわれの体――を与えただろうか?もしそうしているなら、われわれは各々、彼を聖所――われわれの心――の中にもたらして、「今ここを治めて下さい、私を、私の願望を、私の愛情を治めて下さい」と言っただろうか?もしそうしているなら、われわれは各々、一つの明確な行為によって、一度限り永遠に、彼をわれわれの霊の中にもたらして、「私の理性を治めて下さい」と言っただろうか?

私の想像力をとらえて下さい

 「私の想像力をとらえて、それに天の栄光と神の美点とを描かせて下さい。そして、それがあまりにもかかりっきりになっているものから、それを解放してください」と言っただろうか?

 またわれわれは、「主イエスよ、私のこの知的高ぶりをとらえて下さい。私はあわれな愚か者です。どうか中に入って来て、私のために私の代わりに考えて下さい」と言っただろうか?

 それから、われわれは竿を引き抜いただろうか?われわれは、「主よ、今、あなたを一度限り永遠に中にもたらして、私は竿を引き抜きます。これを来月も繰り返すつもりはありません。私は今これを行います」と言っただろうか?そして次に、こう述べてから、われわれは自ら外に出て行っただろうか?

 われわれについてはどうだろうか?この素晴らしい宮全体――体・魂・霊――はもはや自分のものではないかのごとく、われわれは生きているだろうか?それはわれわれのものだったが、われわれは外に出て、神が中に入って来られた。今や、それは神のものである。そうである時まさに、私は大いに確信しているが、神の栄光はその家を満たすのである。


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