それは段階的明け渡しではなかった

 この建造物の外側の諸部分のための別々の儀式はなかった。至聖所を明け渡すことは、外庭と聖所を明け渡すことだった。それはまるで降伏した要塞を占領する征服者が、外側の防御壁を通り抜け、内側の防御壁を通り抜けて、それから内側の城内に入り、全体をまぎれもなく占領した印としてそこに帝国の国旗を立てるかのようである。

 まさにこのような方法で聖別は新約聖書の中に示されている。

 ――「あなたたちの体を生きたいけにえとして捧げなさい」――外庭。

 ――「神の平安にあなたたちの心を治めてもらいなさい」――聖所。

 ――「神を知る知識に逆らって自らを高く上げる空想や、すべての高ぶった思いを投げ倒し、あらゆる思いを虜としてキリストの従順へと至らせます」――思い、至聖所。

 三.さて、これをすべて個人に適用しようではないか。おそらく、まずわれわれは、聖別に関するわれわれの観念は貧弱で不適切だったことを、認めるのを厭わないだろう。

聖別に関するわれわれの観念

 これまでわれわれの念頭にあったのは、だた奉仕だけであり、しかも体に関係する奉仕だけだった。「私の手、私の口、私の足を用いて下さい」云々と、感情的・身体的方法で考えていたのである。予型であるこの宮とその意義について考えていなかったのである。奉仕に関する考慮とは別に、神に満たされること、神に所有されることについて考えてこなかったのである。神の親愛なる人々が「奉仕、奉仕」と急き立ててばかりなのには、ほとほとうんざりである。まるで、神の子らが神を愛して神に信頼することはどうでもよくて、神のために労苦することしか考えていないかのようである。これは、神のものであるクリスチャンが奉仕すればするほど、ますますそうである。否。より高度な思想がある。イエスに万物の主として王座についてもらうことである。

 愛する人よ、われわれについてはどうだろうか?われわれは、外庭を通過する時、「おお、主よ、この体はあなたのものです。それを御旨のままに支配して下さい。それをどのように用いるのか選んで下さい」と言って、断固たる意志の行為により、心から、喜んで、イエスにしかるべき地位に着いてもらっただろうか?聖所を通過する時に、「神の平安よ、私の心を治めて下さい」と言い、霊の中に入る時、「誉むべきイエスよ、ここに住んで下さい。私の理性をあなたの御言葉の権威に服させて下さい。私の想像力を聖なる働きにつかせて下さい」と言っただろうか?


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