御言葉:「そして祭司たちは主の契約の箱をその場所へ、すなわち家の本殿の中へと、至聖所の中へと、ケルビムの翼の下に運び入れた。ケルビムはその二つの羽を箱の所の上に広げていたので、ケルビムは箱とその竿を上から覆った。そして彼らは竿を引き抜いたので、竿の端が本殿の前の聖所から見えていたが、外からは見えなかった。それらは今日に至るまでそこにある。箱の中には、二枚の石の板のほか何もなかった。これは、イスラエルの子らがエジプトの地から出て来て、主が彼らと契約を結ばれた時に、モーセがそこに納めたものである。そして、祭司たちが聖所から出て来た時、雲が主の家を満たした」(一列八・六~一一)。

 聖別に関する主題の学びを始めたいと思う。大抵の信者はこの主題について大いに誤解している、と私は信じている。聖別は神の行為だろうか、それとも人の行為だろうか?それは部分的に人の行為であり、部分的に神の行為なのだろうか?もしそうなら、聖別における人の役割は何か?

 疑いなく、この主題は重要であるとぼんやりと感じられる。今日の宗教論文はこの重要性を主張しており、クリスチャンたちが大会や大集会に集まるとき、「聖別集会」のための時を設けないのは極めて稀である。そして事実、いわゆる「聖別」が多くなされている。キリスト教共励会は月例聖別集会を定めている。だから、ある意味、果てしない聖別の働きがなされているのである。

果てしない聖別

 聖別に関して多くの祈りがなされており、それに関する多くの話がされている。また、それを行う方法にはとても多くの方針があり、結局のところ聖別が果たしてなされたのかどうかに関する疑いも多く存在する、と私は信じている。この疑いは、もちろん、とても多くの人々が絶えず自分自身を「再聖別」している事実によるものである。

 さて、聖別は何度も何度もすべきものなのだろうか?もしそうなら、われわれはそれを知らなければならない。「自分は常に聖別され続けている」と堅く確信できるようになるには、どの程度の頻度で聖別の行為を繰り返す必要があるのかを、われわれは知らなければならない。

 私はこの混乱に驚いている。なぜなら神は、言わば、われわれの学びのために題材を用意して下さっているからである。神は聖書の中に聖別に関する二つの偉大な予型的絵図を置いて下さったのである。


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