主の喜びが、われわれの喜びである

 少しの間、別の思想に向かうことにしよう――その人間的な面である。

 「それは私の喜びが彼らの内に満ち溢れるためです」。

 しかし、われわれはどのように主の喜びを得るのか?明らかに、非利己的な高みへの招きをこれは示しているのではないだろうか?主の喜びにあずかろうとするなら、われわれは主の喜びの源からそれにあずからなければならない。たとえそれが自分に対する悲しみと重荷を意味したとしても、他人の心から悲しみを、他人の生活から重荷を取り除くには、われわれは喜んでいなければならない。

 われわれは、失われている人が救われるのを、かつて学んだことがなかったほど喜ぶことを学ばなければならない。御言葉は、「一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちのあいだに喜び」があると述べている。

 われわれは「十人しか回心しなかった」と残念がるのをやめなければならない。そして、御使いたちのように、悔い改める一人の罪人のために喜ばなければならない。

 次にわれわれは自分の思いを将来に、天の安息に、天の活動と彼処での永遠の喜びに、もっと向けなければならない。繰り返すが、これは警鐘である。主の喜びを得るには何らかの代価が必要なのである。

 救いとその喜びは無代価の賜物である。しかし、主の喜びを得る唯一の方法は、主との交わりの中に入って人生に対する主の計画の中に入ることである。自分の容量内で、この世にあって主のものとなることである。主と共に苦難の喜びの中に、神の偉大で甘美な喜びの中に、来るべきものに対する待望の中に入ることである。

 隠者ピエールが十字軍を説きつつヨーロッパ中を巡ったのは、人類にとって大いなることだった。それは封建領主や騎士たちに「つまらない地域戦争をやめよ」と告げる呼びかけだった。「横柄で空しい生き方から、城の庭での論争や城の広間での宴会から離れ、出て行って非利己的なことをなせ」と告げる呼びかけだった。

 人間生活の悲しみや痛みは、恒久的十字軍への召しではないだろうか?人生を浪費するものから離れ、思いやりを持ち、有益な者になれ、と奮い立たせる呼びかけではないだろうか?また、この世の罪は、キリスト御自身の偉大な救いの計画に基づいて地の果てまで出て行け、と告げる召しではないだろうか?これには何か大事な要素があるように私には思われる――われわれの高貴な面をとらえる要素、利己的享楽の卑しさからわれわれを解放し、引き上げて、われわれの主の苦難と又その言い尽くせない喜びに喜んであずかる者とする要素があるように思われるのである。


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