解決された逆説

 これについて熟考して、それを「確かに彼は私たちの痛みを負われたのであり、私たちの悲しみを担われたのだ」というイエス・キリストの悲しみに関する預言者の説明と結び付けるなら、われわれはこの逆説を解く寸前のところにあると思う。

 言い換えると(それはとても単純ではないだろうか?)、イエスは他者の悲しみを担うことを無上の喜びとされたのである。彼はこの世の悲しみや重荷を負わなければならなかったにもかかわらず喜びに満ちておられた、ということではない。彼はそれを担えたからこそ喜びに満ちておられたのである。それが彼の喜びの噴水口であり、まさに源だったのである。

 少しの間、痛みや悲しみについて考える時にわれわれ全員が感じる恐れから離れて、われわれ自身の魂の高貴な面に立つことにするなら、われわれはこれを想像できると思う。

 ――イエスのような存在は、そうできることを、言い尽くせない喜びをもって喜ばれるであろうことを、われわれは理解できる。

 ――罪と窮乏と欠乏と禍いを抱えたこの世と、山のような不法とを見下ろされた時、彼の心には次のことを知って限りない喜びがあったであろうことを、われわれは理解できる。すなわち、しかるべき時に、彼は地上に下って、この言語を絶する咎を負い、十字架を通してそれを人から運び去るということである。

 ビクトル・ユゴーの偉大な物語の中のジャン・バルジャンが荷馬車の下で幸福だったのと同じである。それは彼をひどく傷つけたが、彼はそれを持ち上げて、下敷きになっていた老人からどかしたのである。それと同じように、そうするための代価だった痛みの中にも喜びがあったのである――それは身代わりの苦難の喜びである。人類の心を圧迫していたものをすべて担って、それを永遠に取り除く喜びである――これが主の喜びだったのである。

 結局のところ、哀れなこの世ですら、この真理の絵図となる高貴な事例をその中に見い出すのは容易であることがわかる。

 確かに、敵の槍の集中砲火を自分自身の胸に集めた時、ビンケルリートはこの喜びを感じたに違いない。彼がそうしたのは彼の仲間が戦線を突破して、自由への道を拓くためだった。それらの槍が自分の心臓に殺到して自分の命が消え去るのを感じた時、彼の中には言いようのない喜びがあったにちがいない。それは苦難だったが、そのように死ぬのは喜ばしいことだったのである。

 すべての乗客の身が安全になるまで、たとえ自分自身の両手が焼け焦げても操舵輪を握りしめて、燃える船を岸辺に保った操舵手には、痛みよりも大きな喜びがあったにちがいないと思う。これはとても高度な種類の喜びである。しかし、結局のところ、われわれはこれを理解できるのではないだろうか?

 沈み行く船の甲板に立って、最後のボートの自分の席を何の請求権もない貧しい密航者に譲り、自分が船と共に沈んで行くあいだ、彼が安全な所に移るのを見送った船長は、身代わりの苦難のこの喜びという水を大いに飲んだにちがいないと思う。


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