イエス・キリストの喜び

 まず第一に、イエスは御自身の喜びについて述べておられる。

 さて、われわれは常々、イエス・キリストのことを喜びに満ちた御方として考えない。彼の顕現の遥か昔に、預言者イザヤは彼について、彼は「悲しみの人で痛みを知っていた」と述べた。そして、その通りだった。しかし、見よ。悲しみの人であって、憂鬱な人ではなかったのである。イエス・キリストのことを一生塞ぎ込んでいる方と考えることはできない。彼は苦悩しつつ御自分の重荷に向かったのであり、御自分の過ち――彼の王座は彼を否定し、彼の民は彼を拒絶し、彼が造った世界の中で貧しく卑しい者となったこと――で頭がいっぱいだった、と考えることはできない。

 一度だけ、ゲッセマネで、彼は御自身の悲しみについて述べられた。「私の魂はひどく悲しく、死ぬばかりです」。しかし常々、彼は御自身の喜びについて話された。それゆえ、これは彼の生涯の逆説である。「悲しみの人で痛みを知っていた」。しかし、彼はこれらの悲しみを、言わば力強い喜びという深い満ち溢れる潮流の上に担われたのである。この喜びは悲しみに優るものだったのである。

 この逆説――歓喜している喜びに満ちた悲しみの人――について理解するよう努めようではないか。

 十字架に近づけば近づくほど、イエスはますます御自身の喜びについて語られたことに、これまであなたは注意したことがあるだろうか?

 彼の務めの初期の頃、彼は御自分の喜びについてあまり証しされなかったことに気付く。私は信じているが、いわゆる「世間から好評を博した時期」は、一度もそうしておられない。その後、群衆が彼に群がり、まるで国をあげて彼を長く待ち望んだメシアとして実際に受け入れたかに思われた。しかし、彼が前進し続けて、カルバリに近づくにつれて、そして、この世の恥辱と悲しみと罪という重荷が恐るべき暗闇の中で彼の上に集結してのしかかり始めるにつれて、彼はますます御自身の喜びについて話されるようになった。そして、彼の締めくくりの勧告・教えでは、彼は御自身の存在を満たしている深い喜びについて絶えず言及しておられる。悲しみの潮流がまさに絶頂に達した時、喜びがそれを超えてせり上がり、それに勝利したように思われる。


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