われわれが何を為すかではなく、われわれが何者であるのかが
人生の大きさを決める


 ラコルデールは言う、「王が紫色の細い亜麻布の衣を着てわれわれの通りを通るかもしれないが、その思いが卑しくて低劣なため、彼は卑しい低劣な人かもしれない。また、汚い衣服を着た貧者がそこを通るかもしれないが、その思惟が高尚で偉大なため、彼は偉大な人かもしれない」と。

 これはその通りである。状況が人生を壮大にするのではない。人々は時として小さな場所で大事をなす。また、他の人々は大きな場所で小事をなす。もしわれわれが偉人たちと同類の者なら、われわれはいつの日かその種族の者として知られるようになるだろう。

 ある素朴なアメリカ人の詩人がこれを「無言」という詩にした。三人の人――作家、音楽家、建築家――が、日毎のパンを求めて日々労しつつ、重い足取りで人生を歩んでいた。作家は無言のうちに感じる叙事詩を決して記さなかった。音楽家は自分の魂の中に鳴り響くオラトリオを決して作曲しなかった。建築家は建築可能であると感じる大聖堂の代わりに木の家々を建てた。その後、彼らは死んだ。そして、三人の人が彼らに挨拶した。その三人とはホメロス、モーツァルト、ミケランジェロである!

この死せる音楽家の魂は進んで行った
陰鬱な暗闇の中へと――
喜びの声が遠くの雲に響いた――
モーツァルトの仲間への挨拶である
彼はこの音楽家を自分と同等の者と讃えた。
「人々は知っている」と彼は言った。「あの最高の音楽を。
この沈黙している人に取り憑いているあの無言の音楽を」。


 そうである。無名で、貧しく、無視された、自己否定と痛みの生活の多くは、本質的に偉大なのである。それは、偉大な事柄――神に属する事柄――との交わりのうちに営まれているからである。そのような人は待つことができる。

 これが選民である。しかし、その運命に達するのはまだ先である。

静かに、私は腕を組んで待つ、
風や、潮流や、波を気にしたりしない。
私はもはや時や定めに向かってわめかない、
なぜなら、見よ、私の運命は私に必ず臨むから。

私は自分のせっかちさを抑えて、ゆっくりと進む。
なぜなら、こんなに急いで何の益があるのか?
私は永遠の道の只中に立つ、
私の運命は私の顔を必ず見分けるだろう。

昼夜、寝起きして、
私の求める友人たちは私を探している。
風が私の帆船をさ迷わせることは決してなく、
潮流が運命を変えることも決してない。

私が孤立しているから何だというのか?
私は来るべき歳月を喜びつつ待つ。
私の心は蒔いた所で刈り取る、
そしてその涙の成果を蓄える。

雨水は自分の目的地を知っており、
向こうの高所に湧き出る小川を生じさせる。
それと同じように善もまた、
純粋に喜んでいるこの魂の中に流れ込む。

星々は夜毎に空に現れ、
高波は海に現れる。
時も、波も、深いものも、高いものも、
私の運命を私から遠ざけることはできない。



オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
10 | 2017/11 | 12
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ