とても実際的な問い

 「善いことをする意志は私にあるのですが、それをどう行えばいいのかが分かりません」と言うことで、パウロは何を言わんとしているのか?

 私は自分のクリスチャン生活の間ずっと、「クリスチャンはローマ七章の中に生きてはならない」という意見を耳にしてきた。やれやれ、彼らの十人中九人がローマ七章に至ってくれればよいのだが。ローマ七章のこの人は霊的事柄に無関心な者ではない。彼は、自分の生活がキリストの生活のようではないという理由で、その心が砕けて、その存在が苦悩の中にある人である!

 ローマ七章のこの人は、神の御子の血でまったく赤く染まっている人である。自分が恐ろしい現実的な何かと格闘していることを彼は知っていた。そして、自分のための解決策を神が持っておられるとするなら、彼はそれを得ないわけにはいかなかった。私は問う。善を行う意志と決意はあるのに敗北してしまうこの人は、何を必要としているのか?

 彼にはさらなる道徳規範が必要なのか?さらに高い基準が必要なのか?もちろん、この哀れな人は今、自分が行っているものよりも善いものを知っている。そして、まさにここに道徳的説教の弱点がある。それはこの哀れな罪人に向かって「善人たれ」と絶えず告げるが、善人になる方法については決して告げない。そして今日の講壇はほとんど、人々に「善人たれ」とは告げるがその方法については告げない。

 われわれは彼のもとに十戒を携えて行って言う、「おや、パウロよ。あなたにとって何が問題なのか私にはわかりません。善を行えないとあなたは述べていますが、あなたは取り乱しているように思われます。ここに十戒があります」。そこで彼は言う、「しかし私は十戒を知っています。若い時からずっと十戒については知っていました。私の内なる人は十戒を喜んでいますが、私には十戒さえも守れないのです」。然り、律法は彼を助けられない。律法は「あなたは……しなければならない」「あなたは……してはならない」と告げるが、人の力や能力に何も加えない。一切何も加えない。それでは、彼には何が必要なのか?

道徳規範ではなく、力である

 この人には、その生活の中に超人的霊性を実現せしめる超人的力が必要である。さて、誰かがキリスト教に反対して「キリスト教の道徳的要求は人の性質にとって高すぎる」と言う時、その人はまさにこの真理を見い出し始めたのである。クリスチャンの十人中八人が決して見い出さない一つの真理を見い出し始めたのである。それはもともと人の性質にとって高すぎるものなのである。それは人の手が決して届かないところに置かれている。助けなき人の能力では決して届かないところに置かれている。もしそれがすべてなら、福音は聖人向けのものになっていただろうし、とにかく罪人にとっては絶望の使信となっていただろう。しかし、それがすべてではない。

 この超人的要求と共に、超人的力も用意されているのである。そして、パウロはそれを握った。彼はローマ七章の中にとどまらなかった。なぜなら、その意志が目覚めてその最高の力に達し、それでも事をなしえない時、その人は自己の終わりに達っしたからである。


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