07 | 26 |
2017 |
これは肉と死の全き根絶、自己の消滅ではないし、罪なき完全でもない。自己は忌み嫌われ、信頼を失い、嫌悪され、無に帰された。しかし、この経験の特徴は、年齢や経綸がいかなるものであれ、大いに均一であるため、成就された結果と、それによってもたらされた諸々の段階の両方を、述べることは困難ではない。
一.この至高の経験の中には、魂に対する神御自身の啓示が含まれる。
それは神に関する何らかの事柄、神に関する何らかの新しい証し、悲しみや試練に関する何らかの教訓ではない。それは神御自身の行い、神の自己啓示である。この自己啓示により、証しでは決して心や良心に伝達されなかったものが啓示される。それゆえ、自分自身に関する新しい強烈な理解が生じる。
二.聖書から引用した例は、神のこの啓示の効果についても一致している。
神のこの幻を前にするとき、人は自己を忌み嫌うようになる。すでに見たように、この効果は大いに絶対的なものであるため、力がすっかりなくなることとして常に述べられている。自己の命は屠られないものの、もはや二度と頼ってはならないもの、神の事柄において決して当てにしてはならないものとして、栄光の中で見なされるようになる。パウロが述べた通りである。「私たちは自分自身の内に死という判決を持ちました。それは私たちが自分自身ではなく、死者をよみがえらせて下さる神に信頼するようになるためでした」。復活の神、新しい不滅の命の神に信頼するようになるためなのである。
三.この自信の喪失の後に、死んで復活した方の力で満たされることが続くことについても、聖書の事例は一致している。
畏るべき麗しい幻を前にして顔を伏せた人が、そのまま取り残されたことは一度もない。「私は力を受けた」が不変の証しである。
四.それから新しい、より高い水準の奉仕が臨む。これとその新たな実り豊かさ――これは幸いな結末である。
あなたが顔と顔を合わせて神とまみえること以上に、私はあなたのために何を切望できよう?この内なる生活の叙事詩におけるこの最高の言葉があなたのもとに届くこと以上に、私はあなたのために何を切望できよう?どうか神が、御名のために、それを与えて下さいますように。
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館