しかし、マルコによる福音書の十一章の節に戻ることにしよう。この特権の一覧では、われわれはまず、言わば王座の間の内側に、まさに至聖所の中に居てしかるべきである、とどれほど見なされているのかに注意せよ。そこに、祭司である信者として、われわれは出入りし、ケルビムの間にある恵みの座からの御声を聞く。御声が語ると、それは成る。「動いて、海の中に入れ」と命じると、それは堅く立つ

 次にわれわれは出て来て、言わば聖所の中に入る。金の祭壇で祈るためにその部屋の中に入る。「あなたたちが祈る時に願うものは何でも」。

 それから、最後にわれわれは正規の幕屋の外に出て、外庭の中に入る。そこでわれわれは諸々の罪の赦しを受ける――「天におられるあなたたちの父もまた、あなたたちの咎を赦して下さるためです」。

 「自分自身を清めるために、あるいは、他の人々を清める兄弟としての奉仕のために、時々外庭を再訪する必要があるせいで、祭司である信者としての自分の不可侵の権利――裂かれた幕を通って御座の区域に入る権利――は失われた」と思わないようにしようではないか。

 むしろ、この節に関する別の比喩的絵図に向かって、それを山の景色と呼ぼうではないか。われわれがどのように山頂から始めるのかに注意せよ。

 「神を信じよ」。ここではシェキナの雲がわれわれを取り巻いている。しかし、弟子たちは変貌の山で「雲の中に入った」時、恐れて困惑したが、われわれはそうしないようにしようではないか。

 「誰でもこの山に向かって(中略)と言い」云々。ここでわれわれは雲の中の御声に耳を傾ける。そこは依然として山頂である。

 「あなたたちが祈る時(中略)すでに受けたと信じなさい」。今や、われわれは山腹を途中まで降りてきて、嘆願という高原の高みから可能性という景色を眺めている。

 「あなたたちが立って祈る時(中略)赦してあげなさい」。今や、われわれは山の麓の平原にいるわれわれの仲間たちの間にいる。そして確かに、下界で日常の諸問題、誘惑、試みに囲まれている間、変貌を目撃した後の弟子たちと同じように、われわれの山上での経験を試すために、悪鬼的力の何らかの実例が必要になる。

 信仰の小径のこの順序――それは神と共なるわれわれの地位から始まって、われわれ自身、われわれの仲間たち、われわれの困難を伴うわれわれの境遇へと下って行く――は神の考えであって、人の考えではない。われわれの不信仰はこの順序を覆す。神は、その恵みにより、われわれのことを御子の御業の功績によって天上で御自身の右の座についているものと、まず見なしておられる。しかし、ああ、あまりにも多くの時、われわれの不完全な経験のせいで、これほどの慰めと優位性が台無しになってしまうのである。そして神の見方の代わりに、われわれは自分のことを山の麓にいる信者と、まず見なしてしまう。そして次に、登るために努力・奮闘するのである。これは何と不必要なことか。このように極めて偉大な尊い約束を通して、われわれは神聖な性質に与る者となっているからである(二ペテ一・四)。


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