第二に、言葉という手段によって御座の力を現わすことに対して、われわれは敬意を払わなければならない。その話し方には二つある。信仰の祈りと、その最も高度なものである、信仰の命令である。御座の力は極めて偉大な尊い諸々の約束を握って、これらの発言方法のどちらかを選ぶよう信仰を励ます。「あなたたちが祈りの中で信じて求めるものは何でも、あなたたちにかなえられます」。「一粒のからし種のような信仰があるなら、この山に向かって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るでしょう。そして、あなたたちにできないことは何もないでしょう」。聖書全体を通して、信仰の祈りが功を奏した事例が記されている。また、信仰の命令が効果的に発せられたのは、それより僅かに少ないだけである。旧約聖書では、モーセ、ヨシュア、エリヤ、特にエリシャが、例外的ではあったが、命じて神聖な結果を生じさせる力を獲得した。しかし新約聖書では、これほどの御座の力の授与が、言わば普通になる。キリストが任命された十二使徒と七十人の弟子たちは、彼の御名の中で悪鬼どもを追い出した。それはおそらく、キリスト御自身の方法にならって、一言で追い出したのであろう(マタ八・一六)。パウロがテアテラで、自分のあとを叫びながらついてくる女から占いの霊を追い出したのは、一つの命令によってだった(使一六・一八)。また、当時、このような語り方が信仰にとって自然なものだったことがわかる。それで、弟子たちが「自分たちの仲間になってついてこない」と非難した人でも、それを用いて成功したのである。主は「彼に禁じてはならない」と仰せられた。しかし、この最も高度な御座の発言方法は、悪鬼憑きの事例に対するためだけのものではなかった。われわれの主はしばしばそれを用いて、他の諸々の奇跡を行われた。また、疑いなく、使徒ペテロはこうして宮の美しの門で足なえの人を回復させ(使三・六)、パウロも同じような方法でルステラで足なえの人を回復させた(使一四・一〇)。同様にしてパウロ自身も、弟子のアナニヤの言葉で視力を回復してもらった(使二二・一三)。さらに、ペンテコステの日に与えられた霊の賜物の豊かさから見て、御座の発言のこの方法により、それに対応する結果がしばしば生じたことに疑いの余地はない。

 今は依然として聖霊の経綸である。われわれの体は聖霊の宮である。その内住により、われわれは一つ御霊から飲み、一つからだに結ばれた。そのかしらは王座についたキリストであり、キリストは「昨日も今日も永遠に同じ」御方である。その御名の中で、われわれは神の住まいのために、御霊を通して、共に建造される。備えの状況は同じままであり、もし経験が異なるなら、それは信仰の欠如のためである。そして、この御座の言葉のこれらの方言――信仰の祈りと信仰の命令――は両方とも、この経綸の終わりまで、教会によって用いられるべく定められている。これはマルコ一一・二二~二六の節を調べれば明らかである。この個所では、その双方が密接につながっていることがわかる。


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