エリコ崩壊のときに自分たちのために示された素晴らしい神の力に有頂天になって、彼らは「神の力は引き続き無条件で示される」と思い込んだ。新たな出来事に適した特別な神の知恵を求めることを無視し、また信仰の中に自信を混入させて、彼らは不注意に突進して敗北した。しかし彼らの敗北が著しかったように、神の回復も著しかった。というのは、彼らが主に尋ね求めて、神の命令により、自己吟味を始め、自分たちの無知の罪を見い出すやいなや、それに対する神の裁きに服してそれを取り除いたところ、直ちに彼らは再び勝利したからである。

 さらに、彼らは自分たちの痛ましい経験から一つの教訓を引き出したように思われる。その教訓は、彼らのその後のすべての行軍で、彼らの益となった。そして私たち自身も、霊のカナン人と戦争中の霊のイスラエル人として、気をつけた方がいいだろう。その教訓とはこれである。すなわち、悪を征服することにおける神の御旨は常に同じだが、信仰の戦いにおける神の戦術は変わるのである。アイ陥落の直後、国民はエバルとゲリジムに集まったが、それは素晴らしいものだった。彼らが集まったのは、祝福と懲らしめの可能性について、再び知るようになるためだった。祝福と懲らしめは、従順の道の両側の垣根である。この集まりから、彼らがいかに徹底的に次のことを確信するようになったのかがわかる。すなわち、力はただ神にのみ属すること、そして、その力が自分たちのために示されるのは条件付きであって彼らの忠実さに基づくことを、彼らは確信するようになったのである。

 そのさらなる適用は明らかである。多くの場合、信者がキリストにある自分の天的特権に意識的にあずかるようになった直後に、サタンは信者を捕らえることに成功する。それは何らかの著しい勝利の経験を通してであり、信者が思い込みと不注意さという罪の中に陥るような方法による。悲しげに信者は学ぶ。過去の経験に頼ってそれを力と安全の源と見なすなら、将来成功を収めることは決してないのである。また、たとえそのような信頼が全く意図せざるものであり、無意識のうちになされているものだとしても、禍を招かざるをえないのである。なぜなら、近頃の勝利の素晴らしさにより記憶と想像力が魅了されている一方で、敵の死に物狂いの力が過小評価されてしまうからである。それで信者は、神の御名の中で新たな戦いに出かけて行くのだが、うっかり自分の指導力にある程度信頼してしまう。そして圧倒的敗北と、それに続く恥と驚きの中、信者は「お前の神はどこにいる?」という敵の嘲りを聞く羽目になるのである。しかし、教訓に注意を払い、自己吟味を始めるとき、信者は新たな感謝と共に次のことを学ぶ。すなわち、裁きが確かに神に属するように、憐みもまたそうなのである。そして喜びに満ちた柔和さの中で信者は、「あなたには赦しがあります。それはあなたが畏れられるためです!」と叫ぶ。しかしどの段階でも、われわれは裁かれた敵に警戒しなければならない。敵は予め計略を巡らして、自分には打ち負かせない善と提携し、こうして秘密裏にそれを悪用しようとするのである。


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