今、ヨシュア記五章における指導者の変更の場面の根底に横たわる象徴的意義をまとめる用意をした方がいいだろう。こう記されている――

ヨシュアがエリコの近くにいた時、目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持ち、彼に向かって立っていた。そこでヨシュアはその人のところに行って言った、「あなたは私たちの味方ですか、それとも私たちの敵の味方ですか?」。彼は言った、「いや、私は主の軍勢の将としていま来たのです」。ヨシュアは地にひれ伏し拝して言った、「わが主は何を僕に告げようとされるのですか?」。すると主の軍勢の将はヨシュアに言った、「あなたの足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる所だからです」。ヨシュアはそのようにした。


 すでに見たように、ヨシュアは、モーセの後継者として見たとき、復活したキリストの霊の型としての役割を果たしている。そしてこのようにヨシュアを見ると、彼という人物が次のような指導者であることが十分にわかる。すなわち、彼は信者を導いてヨルダン川――肉の支配権の死を表す――を渡らせて、天上にある復活の住まいに入らせることに成功する指導者なのである。

 しかしヨシュアに関するこのような見方は、天上にいる主権者たちの要塞を打ち倒す問題になると十分ではない。このためには、ヨシュアの別の面が必要である。私たちは彼を、墓からよみがえったキリストの霊の型として見るだけでなく、主権者たちや権力者たち、力や主権を遥かに超えて、いと高き大能者の右に座しておられる、キリストの霊、神・人として見る必要がある。ゆえに、ヨシュアが主の軍勢の将に服従したことを示している先の御言葉の意義はこれにある。

 しかし、ここで読者は問うかもしれない。「以前モーセからヨシュアへと明確に継承がなされたように、もしヨシュアから主の軍勢の将へと継承がなされたのだとすると、なぜ、それ以降、ヨシュアは視界から消え去らなかったのでしょうか?なぜ、この『将』が目に見える形で現存し続けなかったのでしょうか?」。

 その答えは明らかである。この二つの事例の違いはみな、カナンにおけるヨシュアが聖霊の型である事実と合致する。聖霊は教会の中にあの「別の慰め主」として絶えず内住している方であり、復活・昇天したキリストの代表者たる方である。これはキリストが個人的に不在である、この経綸全体にわたってそうである。地上で個人的にキリストの跡を継いだ聖霊が、今やわれわれの内側で治めており、われわれを通してサタンに対して戦っておられる。しかしこれはみな、個人的に目に見えない形でわれわれの上におられるキリストに対する服従と忠誠による。今や聖霊は、目に見えないイエスの御名の中ですべてを行うことを喜ばれる。イエスの御名はすべての名の上に高く上げられたのである……。


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