前の章では、霊的経験の三つの典型的段階があることを見た――エジプトでの経験、シナイでの経験、天上での経験――これはカナンでの経験に似ている――である。さて、この戦いはエジプトではまだ過ぎ越しの血の保護下にあり、しかしこの世の敵意として露わにされるが、信仰は霊のモーセであるキリストの内に十全性を見る。この御方は、力の象徴である神の杖を手に持ち、下って来て解放して下さる。彼は絶えざる神の導きの象徴である雲と火の柱によって支えられている。しかし、この戦いはさらに荒野へと進み、いっそう深い執拗な肉の敵意が痛切に感じられるようになる。そして、その支配から完全に逃れたいという呻くような願いが生じる。このとき、キリストについてのモーセ的観点――半律法的観点――では不十分である。いま絶対的に必要なのは、モーセの後継者である霊的ヨシュアとしてのキリストを見ることである。肉の墓からよみがえった御方を見ることである。この御方には、律法によって責められるべき点は何もない。王的自由の中を、また命の新しさの中を歩んでおられるからである。

 しかし、最終的に、カナンに入って、この戦いがますます激烈さを増し、暗闇の君と直面するとき、信仰はキリストを、ヨシュアの本体である復活のキリスト――この御方は聖霊の力の中で証しの御霊を御自分の弟子たちに息吹かれる――以上のものとして理解する必要がある。なぜなら今や、信仰が勝利するには、王座に着いた救いの将であり信仰の創始者また完成者(ヘブ一二・二、改定訳)であるキリストの、覆いの無い栄光を信仰は見つめなければならないからである。

 しかし、指導者に関するこの最後の予型的変更は、聖書の中のどこに見い出されるのか?復活のキリストの型であるヨシュアが、地上生活におけるキリストの型であるモーセの跡を継ぐのは明らかである。しかし、さらなる継承は予型的にどのように辿ることができるのか?ヨシュアが最高権力の地位から降りたとき、誰が跡を継いだのか?それはヨシュア記五章の最後の部分から分かる。しかし、イスラエルの予型的歴史について、さらに一言、二言述べることにしよう。それは、クリスチャンの霊的解放の段階をよりよく評価するためである。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ