この章を進める目的は、いわゆる御座の生活の実際的意味を示すことである。そしてこの企ては、尋ね求めている信者たち――彼らは自分たちを取り巻く悪魔的包囲網を対処できずにいることを痛切に感じている――のために平易に書くことである。

一.自分の状態に向き合いつつ、尋ね求めている信者

 例として、二、三の想定される経験を選べば十分だろう。どの事例も、各人はささげきっていて、生活と奉仕において神に栄光を帰すことを熱心に願っているものとする。

事例一.疑いによるサタンの攻撃

 この信者は良心的であり、時として病的なほどである。しかし、自分がそうであるかどうか、彼はたびたび自問する。しかし、ある種の経験により、彼は困惑し悩んでいる。それは、極めて聖なる瞬間に、彼の信仰を打ちのめす悪魔的疑いの洪水である。黙想や祈り、あるいは聖書朗読に従事している時にそうなのである。そのような時、神、聖書、魂、将来の重大な諸問題に関する、極めて狡猾で、不吉な、悪意に満ちた疑問が彼に湧き起こるように思われる。これらの疑問と戦っている間、あらゆる種類の真理に堅く立つ立場から押し流されそうになるのを彼は感じる。しかしそれらの疑問に対して、彼の良心、決意、力が常に立ち向かう。これらの困難はしばし去ったのち、常に戻って来るのだが、彼は相変わらず弱いままである。

 これらの疑問は自分自身から発しているように見えるが、実は全くサタンから発していることを、彼はますます理解するよう導かれる。そして痛ましい確信が生じて、解放される望みをすべてしおれさせてしまう。自分の何らかの生体的特異性のゆえに、自分はこうした点についてサタンの無力な餌食になるしかない、と確信してしまうのである。

事例二.冒涜的暗示によるサタンの攻撃

 この信者の経験によく似た経験を、バンヤンは記している。それは、彼が死の影の谷を通る巡礼をしている時のことである。そこでは、暗闇の中、悪霊どもが諸々の考えを彼の耳に囁いて、彼はそれを自分の考えと勘違いしてしまう。そしてその結果、恐怖と自責の念に満たされてしまう。長いあいだ自分で自分を苦しめた後はじめて、もしかすると、この信者は、この問題はどれも全く悪魔的であって、自分は悪くないという事実に到達するかもしれない。しかし、この事実を知って彼はある程度ほっとするが、依然として諸々の攻撃に苦しめられて、それらの攻撃を防ぐには無力であると感じる。


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