そして、これらのことが聖書の中に型としてすべて描写されていることがわかる。アロンとフルがアマレク人との戦いのあいだモーセと共に丘に登っていた時のことである。これは、キリストと共に天上にある信者の絵図であり、信者は戦闘中の主権者たちや権力者たちよりも優位にある。この三人が共に丘の頂にいるだけでは勝利をもたらすのに十分ではなく、一つに結合された頭と体として、全能の力の象徴である杖を掲げる必要があったことに注意せよ。杖が掲げられた時だけ、イスラエルは優勢になることができた。そして、アロンとフルの手がモーセの手を支えた時だけ、杖は掲げられ続けた。杖は力を象徴し、掲げられた杖は力の行使を象徴していた。アロンとフルがモーセの疲れた手を支えた時、彼らの手は実質的にモーセの手になった。これにより、モーセは杖を掲げるという目的を果たせたのである。アロンとフルはその時、言わば、モーセの体の肢体、モーセの肉と骨の肢体になったのである。

 そして同じようにキリストの力もわれわれの窮地の際、われわれが信仰を行使する時に行使されるのである。われわれは天上のキリストの御前における自分たちの地位だけでなく、そこでキリストのからだの肢体として共に働く自分たちの職務をも自覚しつつ、信仰を行使する。いかなる有限の力も、王座に着いたわれわれのキリストの手の中にある高く上げられた杖に抵抗することはできない。そして、われわれの信仰の手が御手をしっかりと握る時、この杖はわれわれのために掲げられ続ける。その時、その素晴らしい結果として、われわれは「来るべき時代の力」を前味わいする。また、かしらとからだが公然と結合される時――その時、このような出来事は今は驚くべき並外れたものだが、自然で当たり前のものになるだろう――の保証を得る。

 アロンとフルと共に丘の上にいるモーセの光景の経綸上の意義が、どれほど顕著なものであるのかに注意せよ。この光景は、キリストとそのからだである教会の現在の関係と、来るべき時代にキリストが保持される関係との違いを示している。モーセはしばらくの間ひとりで杖を掲げていたが、その後、疲れて杖を下した。このモーセの行動は、言わば、神・人なる御方が職務上孤立していることの絵図である。栄光を受けたかしらとして、からだから離れているのである。その結果、諸々の制約があり、言わば、行政上数々の不都合があるのである。彼はこれらの制約や不都合を現在を被っておられ、御自分の民の協調的な同情と信仰とを切に必要としておられる。次に、最終的にアロンとフルが団結してモーセの必要に応じ、モーセの手を支えて持ち上げた。これは信者の一致した信仰の力を示すものであり、来るべき時代の諸々の特権を前味わいすることに成功したためである。それは、栄光を受けたかしらとからだとの間に示されることになる将来の合一の霊的保証を確保したことによるのであり、また、主権者たちや権力者たちに対してかしらとからだが共に持つことになる主権と裁きの霊的保証を確保したことによる。したがって、信仰の領域と力に関するこの壮大な絵図に照らして見る時――信仰は「主を助けて強い者を攻め」(士五・二三)ること、「主に結合される者は一つ霊である」(一コリ六・一七)ことを証明する――どうしてわれわれはこれ以上、このように極めて偉大な尊い諸々の約束が信仰の力にかかっていることに驚いていられるだろう?不信仰のゆえに、これらの約束にたじろぎ続けていられるだろう?


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ