キリストの復活についての信者の理解

 さらに、キリストの死と復活は相補的な教理なので、キリストの死の力に関するこれらの信者の理解の違いは、必然的に、キリストの復活の力についても同じように理解の違いを生じさせる。そして、最終的な結果として、彼らが自覚する霊的経験に相応の違いが生じる。

 キリストの復活に関して、この一人目の信者は、その特別な意義について比較的曖昧な観念しか持たないだろう。すなわち、キリストの復活は、贖いが完全に保証されていることに対する神の署名・証印と等しい、という観念である(ロマ一・四、二五)。彼は確かに、そしておそらくは大いなる明確さで、自分は再生されていること、そして今や愛と信仰の中で、神の御霊の働きにより、自分の復活された主に結合されていることを理解するかもしれない。しかし依然として、命の義認に関して、また復活した御方との復活経験における交わりに関して、他方の信者が享受する豊かな保証には遠く及ばないだろう。なぜなら後者の信者は、キリストをより明確に自分の身代わりとして、また神が絶えず受け入れて下さる復活した代表者として評価するからである。キリストがかつて彼の咎のために引き渡されたように、今やキリストは彼を義とするために復活されたことを、彼は見る。彼はまた次のことをも見る。すなわち、キリストの磔殺と葬りにおいて、彼自身も、彼の「古い人」「この死の体」に関して、十字架に付けられて葬られたのである。それゆえ今や、同じように、彼が信じた時に、神の御霊の働きを通して、彼も復活したのである。そして今から後、死者の中から復活して神に対して永遠に生きている者として、キリストの復活との神聖な一体化にあずかるのである……。

 しかし、キリストの死と復活に関するさらに進んだ理解と経験を得る三人目の信者がいるかもしれない。キリストの肉体の復活は彼自身の将来の栄化された体の保証・似姿であることを彼は認識する。さらに彼は、キリストの肉体の復活は今や信仰によって利用可能な特権であることをも認識する。現在、キリストの栄化された体と一体化されていることを考慮するとき(エペ五・三〇、一コリ六・一五、一九)、弱さ、病、退屈なクリスチャン奉仕の只中で、肉体の力を神によって新しくしてもらえるのである。すでに内住している聖霊という仲介者を通して、キリストの命が彼の「内なる人」の中だけでなく、「外なる人」、「死すべき体」の「死すべき肉」の中にも働き始めるのを彼は見出す(二コリ四・一〇、一一)。すでに「罪のゆえに死んでいる」と述べられている肉体の中に働き始めるのである。死んでいるのは堕落のためである。肉体は依然として死の呪いの下にあり、まだ復活・栄化された体にはなっていない。この信者は、このように理解して、欠乏の時でも、自分の体の命が生かされるのを自覚して喜ぶ。これは将来の栄化された体の保証であり、すでに内住しているキリストを死者の中からよみがえらされた御方の御霊による。


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