「彼と共に天上に座らせて下さったのである……」(エペ二・六、C.H.)


 「御座の生活」というこの句は、もちろん、王座に着いた生活を意味し、敵に対して有利な地位を暗示する。クリスチャンのために霊の敵に対するこのような勝利の地位が備えられている、という考えは聖書的観点から正当化されるのだろうか?

一.御座の生活とは何か?

 神が人類に備えて下さった救いは、すべてキリストを中心としている。また、われわれが経験的に理解する救いは、すべてわれわれのキリスト理解を中心としている。

 さらに。神が備えて下さった救いの歴史的発展はみな、われわれのためのキリストの使命の連続的な諸々の出来事を中心としている。すなわち、彼の受肉、死、復活、昇天、再来である。そして、実現された救いにおけるわれわれの霊的発展はみな、これらの出来事――それらは豊かな救いをわれわれに保証してくれるものである――の意義に関するわれわれの理解を中心としている。

 恵みにおけるわれわれの成長は、これらの出来事の意義についてのわれわれの理解にかかっており、ある程度、これらの出来事すべてと関係している。他方、それはこれらの出来事の特に三つと関係している。すなわち、われらの主の死、復活、昇天である。なぜなら、この三つの出来事の道筋に沿って、聖霊は、われわれの照らされた信仰に応えて、われわれの身代わりであり保証であるキリストとの交わりを実現して下さるからである。

キリストの死についての信者の理解

 第一に、われらの主の磔殺について。二人の信者が、キリストがわれわれの諸々の罪を負って下さったことを理解して、赦しと平安を感じて喜ぶかもしれない。しかしそれに加えて、そのうちの一人は、さらに深いものを見る。すなわち、キリストはわれわれの罪深さをも負って、十字架上でわれわれの腐敗した性質の身代わりとなられたことである。それは彼の死によってわれわれの呪われた「古い人」が処刑され、今後は「まったく死んだ」ものと見なされて、キリストの墓の中に葬られるためである。その結果、この信者が経験する「束縛から解放された」という喜びの感覚は、他方の信者が経験する喜びの感覚を遥かに上回るものとなる。なぜなら、二人とも罪の呪いから解放されたことを見て喜ぶ一方で、そのうちの一人だけが、それに加えて、罪の支配から解放されたことを見出すからである。


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