三.罪へと誘う外側の誘惑に対する、私たちの肢体の反応からの解放 ロマ八・一三、コロ三・五

 この「肢体」は、われわれの外側の世界と接触する器官である。絡みつく罪はこれらの特定の肢体に対してなされる攻撃である。これらの肢体は、弱さのゆえに、あるいはそれに屈する長きにわたる習慣のゆえに、いとも容易に罪に応答してしまう。神の考えによると、私は彼と共に死んでいる以上、私の肢体も死んでいる。

 したがって、私の肢体のどれか一つが、自分を喜ばせたり自分を満足させたりする要求を押し付けるのを、私が見い出す時、私はそれを御霊に手渡して対処してもらわなければならない。それは、その肢体がもはや罪に応答しなくなって、私を罪の奴隷とすることがなくなるためである。神抜きで計画を立てる思い、祝福と呪いの両方を告げる口、心では蔑んでいるのに歓迎する手、奇妙な小道にさ迷い込む足、見てはいけないものを見る目、ちょっとした醜聞に喜んで耳を傾けることを願う耳、神の支配に服するよりも物事に関する自分の理解を好む知性、高ぶった心、これらの肢体や、ここで述べなかった他の肢体はみな、神と十字架にもたらされなければならない。神の聖なる光によって見つかった時、その場で死に渡されなければならない。これは必ずしも、神はすべての才能をわれわれから取り去られる、ということではない――むしろ神は、明け渡された生活の中にある御自身の栄光に寄与しないものを取り除き、最大限用いることのできるものを活気づけられるのである。そしてわれわれは、われわれにおける彼のすべての活動について、彼に完全に合意するのである。ただしそれは、われわれが彼の交わりの中に生きている場合である。

四.この世の誘惑からの解放 ガラ六・一四

 この世に関する正しい見解を持つとき、この世は神の御子のために飼い葉おけ、十字架、墓しか持っていなかったことがわかる。この世は、今日彼の側に立つすべての者を、同じように扱う。「私はそこに行くべきでしょうか?このことやあのことをするべきでしょうか?」とクリスチャンは問う必要はない――ただ、罪に対して死んでおり神に対して生きている者として生きよ。そうするなら、この世がそのような問いに決着をつけてくれる。次に、十字架を通してこの世を見るなら、一つの体系が見えるだろう。その体系の中に彼は何の立場も持っておられなかったし、彼がその中にやって来られた時、それは彼の降誕に憤って、それからの彼の退去を速めたのである

 われわれはこの世からのものではない(この世に属していない)。十字架の死がわれわれをそれから分離した。それゆえ、それは決していかなる要求もわれわれに課すことはできない。われわれはその中に生きなければならない一方で、それでも、彼の命と力により、その中を通過する巡礼者にすぎない者として生きることができる。その中に戻ろうと思う者は誰でも、そのような者はキリストの十字架と墓を通り越さなければならず、そうすることによりそれらを踏みにじるのである。依然としてこの世に魅力を感じていて、心の中で地位を求めている若い読者全員に、私はこの事実を力説しよう。


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