二.内住する罪の支配する力からの解放 ロマ六・六

 十字架は人を修復するのではない。人を終わらせるのである。キリストが死なれたのは私のためだけでなく、私としてでもある。彼が死なれたのは私から何かを取り除くためだけではないし、罪によってその中にもたらされた何らかの状態から私を贖うためだけでもない。代表者として、完全かつ決定的に、私を十字架に連れて行くためでもあったのである。

 それゆえ、神の見方によると、私はキリストと共に十字架に付けられている。そして、もはや私が生きているのではないかのようである。私は生まれが高貴かもしれないし、あるいは卑しいかもしれない。富んでいるかもしれないし、あるいは貧しいかもしれない。教養があるかもしれないし、あるいは粗野かもしれない。宗教的かもしれないし、あるいは世俗的かもしれない。しかし、私がいかなる状態にあっても、私に関する神の見方は変わらない。信者として、私はキリストと共に十字架に付けられている。私が持っているものそれ自体は、神にとって全く考慮に値しない。それはみな、アダムから受け継いだ堕落した性質の一部として、十字架に行かなければならなかった。これは事実――神の事実――である。それゆえ、事あるごとに私を悩ませて、私の思い・言葉・行いを支配することを要求する罪もまた、キリストと共に十字架に付けられているのであり、もはや私に対する権威を持っていないのである。その支配はカルバリで終わったと見なされているのである。カルバリで新しい王朝――主の王朝――が始まったのである。主はそれを終わらせて、御自身の統治をそこで開始されたのであり、それを担って復活の力の中にもたらされたのである。

 それゆえ、私は神の側につく――彼が見なしておられるように、私も見なす。キリストは罪に対して死なれた――だから、自分は確かにそれに対して死んでいると私は見なす。私は彼と共に復活したと神は見なしておられる。だから私もそうする。そして、命の新しさの中を生きる、信者としての私の権利を彼に要求する――この命は、罪の力や支配を超越した復活の命であり、罪を犯さずに歩むことができる。「もし私たちに罪は無いと言うなら、私たちは自分を欺いています」――決して他人事ではない!日々の生活がこれをわれわれに示す。もし「私たちが罪を犯すのは不可能です」と言うなら、われわれは嘘つきであることになる。しかし、死と復活におけるキリストとのこの生ける合一の中で、「私たちが罪を犯す必要はもはやありません。その支配は除かれました。そして、新しい支配が内なる新創造の中に確立されました」と言うことは可能である。


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