新約聖書の中にはカルバリに関する二つの独特な観点がある。福音書では外面が示されている――キリストの敵どもの計略、キリストの逮捕、彼らの偽りの証し、裁判での嘲り、死の判決、群衆、憎しみ、兵士たちの卑しい行い、鞭打ち、唾を吐くこと、呪い、イエス・キリストをローマの十字架に釘付ける行為、流血、これはみな「磔殺」という言葉で要約できる。これは第一に人類の罪の行為である。

 しかし書簡では、われわれは異なる観点に導かれる。すなわち、十字架の内的理由に導かれる。パウロは一度も磔殺について記さない。彼は十字架について記す。カルバリにおける罪の外面的表われは、彼にとってアナテマだった。しかし、神が彼に十字架の根底にある深い理由を示された時、彼の心はそれに応答し、それ以降、彼は自分の人生を輝かしい喜びのうちに過ごした。なぜなら、そのような啓示を受けて、そのような大義を宣べ伝えるのにふさわしい、と彼は見なされたからである。十字架は彼の唯一のメッセージであり(一コリ二・二)、唯一の栄光(ガラ六・一四)だった。「十字架」という言葉でわれわれが言わんとしているのは、キリストにあってなされた神のあの行いである。それは彼の磔殺と同時の出来事であり、それによって、神はこの世を御自身と和解させ、諸々の罪を終わらせ、罪人が罪の咎・刑罰・力・存在・創始者から完全に開放されて、命の新しさの中に入ることができるようにして下さった。その命の新しさは、人の観念とはまったくかけ離れている。それは神に受け入れられるものであり、永遠に存続する。

 この基本的な御業は一つの行為だが、その効果は多様である。十字架によってキリストはわれわれのために七重の解放を確保して下さったのである――

一.罪のせいで生じた良心の呵責からの解放 ヘブ九・一四

 新約聖書からの一つの絵図によって、おそらく、これを最もよく描写できるだろう。ペテロは自分の主を否み、主は彼に一瞥を与えた。その強烈さは彼しか知らなかった。これによりペテロの良心は自分の罪の大きさに目覚め、彼は外に出て行って激しく泣いた。キリストは死んで、その罪を十字架へともたらし、復活・昇天して、ペンテコステの日に聖霊を遣わし、カルバリによって可能になったものを現実のものにされた。この解放をペテロが理解したことは、使徒行伝三・一四にある事実からわかる。この個所で、彼は自分自身もかつて有罪だったのとまさに同じ罪についてユダヤ人を責めているが、まったく良心の呵責なしにそうしている。キリストが血を流して、聖霊がそれを適用されたことにより、彼は完全に清められたのである。それ以外の何物もそうできなかっただろう。そして、彼を罪人たち――かつての彼のような者たち――の間で奉仕するのにふさわしくしたのである。


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