さて、これが象徴的にヤコブのはしごに集約されていることがわかります。何かが天から降りて来て地に達しています。主はその上におられ、神の御使いたちが上り下りしています。これをヨハネ一章にあてはめると、この原則がこの世界の中に働いていることがわかります。「見よ、まことのイスラエル人を。この人の内には何の悪巧みもない」(ヤコブはいない!)。次にナタナエルに向かって言われました、「あなたはこれよりも偉大なものを見るでしょう(中略)これから後、あなたは天が開けて、神の御使いが人の子の上を上り下りするのを見るでしょう」。天と地、地と天をつなぐのはキリストです。キリストにあって、すべての神聖な伝達が人に対してなされます。「そこで神はご自身をあなたに啓示された」という御言葉を成就するのはキリストです。

 神の家はキリストです。しかし、覚えておいて下さい。これはキリストに個人的に言える一方で、この奥義の啓示として私たちが見るようにされたのは、神の家はキリストのからだである教会によって団体的に表現されたキリストである、ということです。そして、団体的キリストの中で、このからだの中で、キリストはかしらであり、そこに神の啓示と伝達があります。この神の家、教会の中に、ヤコブが「天の門」と呼んだものがあります。これが神のベテルです。

 すべてのことをまず天的な観点から、キリストにあって天から出たものとして見なければならない一方で、私たちはこの二番目の点を見なければなりません。すなわち、「イスラエル」のための場所を設けるために、ヤコブは排除されなければならないのです。つまり、人からのものはすべて排除されなければなりません。それは、神の家における神聖な秩序のための道を設けるためです。ヤコブはヤコブで、神聖な事柄を侵害し、生得権を侵害しました。確かに、神の主権により、ヤコブは生得権のために選ばれた者でした。しかし、神の選びは決して一方的なものではありません。神の選定には常に二つの面があります。一つは主権的行為である選びであり、もう一つは選びの器がそのために選ばれたものにふさわしくなることです。ですから、たとえヤコブが神の主権と選びの道筋の中にあって、生得権が確約されていたとしても――その本体として教会もそうなのですが――神の主権が取る別の道筋があるのです。その道筋とはつまり、ヤコブ的な立場から全く離れることです。嗣げるのはありのままのヤコブはないからです。嗣ぐのは「イスラエル」です。


オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館
オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー 本館へ

コメント
トラックバック
トラックバックURL
コメントフォーム
管理者にだけ表示を許可する
プロフィール
カレンダー
08 | 2017/09 | 10
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
全記事表示リンク
検索フォーム
個人のブログに関するリンク集
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

電子書籍
Glorious Secret
ジェシー・ペン-ルイス
「栄光の奥義」


The Cross of Christ
アンドリュー・マーレー
「キリストの十字架」


ランキングサイト
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ

人気ブログランキングへ ブログランキング

ブログのまどランキングへ ブログ王へ

ブログランキング【くつろぐ】

QRコード
QR
カウンター

Page Top
Powered by FC2 Blog | | Template Design by スタンダード・デザインラボ