説明してもよろしいでしょうか?私はよく覚えているのですが、初期の説教では、私は自分の要点を説明するために世俗の文献を大量に引用したものでした。詩人や他の多くの世俗の著者を持ち出したものでした――ああ、私の要点を理解してもらうための素晴らしい実例だったのです!主はしばらくの間それを放置されましたが、説教の中でブラウニングの一節を引用しようとすると、すべてがぺしゃんこになってしまう時が、私の霊的生活の中に訪れました。私の説教は死んでしまい、まるで説教を再びやり直さなければならないかのようでした。しかし、私にはできませんでした。私は教訓を学びました。よろしい、二度とそんなことは御免です!時々後戻りしそうになることもありましたが、内側にこの同じ沈むような恐ろしい感覚があり、自分が死に触れたことがわかりました。先の戦争に関してもこれがどれほどそうだったのかを私は覚えています。あの戦争中、私たちの中にはその状況の真っ只中にいた人もいました。私たちは多くのことを見ました。私たちは状況をその場で対処しなければなりませんでした。さて、家に戻って来て後、私は時々この戦争の事例を説教の中で引用して要点を理解してもらおうとしました。しかし、神がそこにおられないことを私は見いだしました。そして、神の事柄に関連してあの戦争に触れるたびに、私はあの同じ恐ろしい死の感覚を内側に感じました。それで、「神は私があの戦争を天的な事柄に混ぜるのを望んでおられず、私はそれをそっとしておかなければならない」という明確な結論に達しました。私はそれを去らせなければなりませんでした。それは命の法則の働きでした。「あなたはそれをしてはならない。そんなことには言及しないのが一番良い」と私に言った人は誰もいませんでした。そうではなく、私の内におられる命の御霊がそれに反対して証しし、事実上私に、「それは死です。もし命を望むのなら、もし自分のメッセージを命の中に保ちたいのなら、もし神の御旨に達したいのなら、そのようなことはすべて放っておかなければなりません。それは決して神から生じたものではありません。神から生じたものだけが神の目的を成就して、神に戻ることができます。ですから、他のものをすべて除き去りなさい」と仰せられたのです。言わば、この御霊の法則は指導的法則なのです。

 私たちがこの命を得て、その命に自分の道を行くことを許しさえするなら、私たちは神の全き御旨に到達するでしょう。それは抽象的なものではなく、私たちの内に住んでおられる神のパースンです。命であるキリストが内側から、命の御霊である聖霊によって治めておられるのです。こういうわけで、この命の働き、過程、発動がいかに全く異なるものであるのかがわかります。


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