神の息子たちは、全く神が産みだしたものである

 イサクについて考える時にまずわかるのは次のことです――これはとても明確ではっきりしています。聖霊はこの事実を常に視野に保つことに真剣に取り組んでいるように思われます。これは旧約聖書の物語の中で明らかにされており、新約聖書の中で二回以上示されて強調されています――すなわち、天然の立場の上ではイサクが生まれることは不可能だった、ということです。ああ、神はこれを確立するためにどれほど専念されたことか!イサクの誕生を告げる知らせ自体も、約束の実現に向けて天然は何もできない時になされました。しかしその後、この知らせと約束がなされた後ですら、神は立ち去ってこの件を保留したままにされました。まるで、かなりの期間の間、時が過ぎ、日が経つにつれて、この件全体に関して人はますます望みを持てなくなるかのようでした。ですから、遂にイサクが生まれた時、彼は天然的成果の領域全体をもってしても説明がつかないものでした。彼はまさに完全かつ徹底的に神からのものだったのです。彼は天然の実ではありませんでした。これが最初の要点です。さて、これをどう言い表し、どう称するかはあなたの自由です。これをクリスチャンになること、神の子供になること、救われることと称することもできます。どう称するにせよ、それに呼応するこの現実は天然の力をまったく超越しています。いかなる力を用いたとしても、神ご自身の外側で神の子供になることはできません。これがどれほど初歩的かは分かっています。しかし、それでもおそらく述べる必要があります。ここでは私たちに出来る働きは何もありません。私たちが差し出せる成果は何もありません。私たちがどれほど努力して力を注ぎ込んだとしても、これを生じさせることは全く不可能です。奮闘し、努力し、格闘し、叫んでも、これを生じさせることはできません。天然の何物もこれを生じさせることはできません。肉から生まれるものは肉です。聖書の中でこれが意味するのは、肉体から生まれるものは肉である、ということではありません。肉はそれ以上のものです。ここでの肉の意味は天然の能力です。ですから、理屈、議論、談話、説得、甘言、強制によって、一人の魂を神の子供にすることは決してできません。議論を尽くし、知的矛盾をことごとく取り除き、遠慮や冷淡さという壁をすべて打ち倒したとしても、そして、議論や懇願によって人の意志を制圧して、そのような説得、感情、影響の下で、ある人が一歩踏み出して、クリスチャンになることを決意したとしても、そのような人はクリスチャンになることに前より近づいたわけでは決してないかもしれません。こうした壁がすべて除かれたとしてもそうです。これが道ではありません。これは神から出ることであり、聖霊によって生まれる以外、何物も子たる身分を生み出せません。この事実を悟っていないせいで、人々の多くが誤った立場にあります。彼らはクリスチャンという名を帯びていますが、それは彼らがある条項に同意したからです。感情に促されたからであり、何らかの説得や影響の下で行った決定のためです。


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