いわゆる神への奉仕においても、私たちは自分自身の情熱、自分自身の熱心さ、自分自身の熱意で奉仕して、奉仕に打ち込んでいるのであって、神の御霊の力と活力――神に仕えるのはただこれによってでなければなりません――で奉仕しているのではないかもしれません。さて、「聖霊が私たちを捕らえる時、私たちは物事に打ち込まなくなる」と言っているわけではありません。確かに、聖霊が私たちを捕らえるとき、聖霊は私たちを用い尽くされます。なすべきことは何でも全力を尽くすことを主は要求されます。私たちが力を尽くし、知性を尽くし、心を尽くして主に仕えることを、主は要求されます。そうなのですが、聖霊が指導し、推進し、支配する責任を担わなければなりません。さもないと全てが無駄になり、私たちは主に仕えようとして欺かれて、徒労に終わってしまいます。問題は、この源が何かということです――私たち自身でしょうか、それとも主でしょうか?神から出ているのでしょうか、それとも何が神のためであるのかに関する私たち自身の判断からにすぎないのでしょうか?さて、ここで理解力を照らしてもらう必要があります。ここで物事をそのあるべき場所に置く必要があります。この天然の命は神に辿り着くことはありません。それゆえ、霊的成熟に達することは決してありません。神のための働きに極めて精力的に取り組んで、自分の力を徹底的に用いている人々が、依然として神を知る霊的知識をこんなにも少ししか持っていないのは奇妙なことではないでしょうか?私たちのこの魂は私たちを霊的成熟、神を知る現実的な正しい知識にもたらすことは決してありません。主を知る知識において成長すること――これがあらゆることの試金石です。自分がどれだけのことをしてきたのか、自分がどれほど誠実で熱心だったのかは、最終的問題ではありません。長い目で見て大事なのは、自分がどれだけ主を知っているのか、自分が主を知る知識においてどれだけ成長したのか、自分の霊的知性がどのように増し加わったのかということです。これこそ重大な問題であり、これは命、神の命の問題です。

 洪水はカインの道の上に下された判決でした。この鎖の第二の輪は、前に述べたように、「そしてカインは主の御前を去って、ノドの地に住んだ」です。その後、何が起きたのでしょう?彼は文明を起こしました。そこに何が記されているのかに注意して下さい。町々、貿易、芸術、産業といった人間生活の様々な面がすべてカインから出て来たことがわかります。カインは文明を築き、自分自身の種類に従った世界を生み出しました。天然の命、魂の命、魂の世界です。神からではなく彼自身から出た世界です。洪水がカインの道、天然の栄光の世界、神から離れて人が生み出した実り豊かな世界の上に下された神の判決でした。ですから、命の法則がこの道筋――死の道――ではなく別の道筋に沿って、洪水をくぐり抜けた復活の立場という反対側の立場に基づいて働いているのがわかります。


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