さて、前に述べましたが、私たちは信者や不敬虔な者を包括する領域よりも遥かに狭い領域の中にあります。愛する人よ、進み通して前進し続ける命、神の印影でありしるしである命、神から出た神に受け入れられる命とは、霊の道筋に沿う命です。死は、形式、礼拝、神認識、宗教といった外見上似通っているものをすべて持ち合わせていたとしても、死以外の何物でもありません。目標に達することはできませんし、進み通すこともできません。「ああ、きっと、あなたが話しているのは、とても大局的なことなのでしょう?あなたの考えていることが私たちには分かります。教会に行って形式的な祈りを唱える、単なる宗教的な人々のことを考えておられるのでしょう」と言う人もいるかもしれません。いいえ、違います!私の言葉は確かにそのような人に当てはめることもできますが、私が考えているのはそういうことではありません。私はこれらの事柄を徹底的かつ完全に分けて、分類整理しているのではありません。私が述べているのは、これらの事柄は大部分の信者に重なるものであり、そのせいで命が制限されている、ということです。宣教士たちが二十五年、三十年の奉仕の後、宣教地から戻って来て、「すべては駄目になってしまいました。神の約束は私にとって塵灰になってしまいました!」と言うていたらくなのはどうしてでしょう?率直に言わせて下さい。彼らはそうしており、中には私たちの知っている人もいます。これはどうしてでしょう?実効性の欠如のゆえに、また物事が上手く行かず、初志貫徹して神の目標に至らないがゆえに、とても多くの人が行き詰まって、事物の実在性に関する疑問――もっとな疑問――を抱いています。どうしてでしょう?今、私は他の幾つかの事柄を除外しています。肉体や神経の衰弱、意気消沈、憂鬱、時として入り込んで混乱を引き起こすこうしたものについて、私はすべて知っています。私が述べているのはそうしたことではありません。私が話しているのは、霊的なものが効を奏さない領域、しかるべき神のしるしが無い領域のことです。たくさん注ぎだし、たくさん与え、多くのことを行っているのに、その結果としての霊の命が実際には見あたらないのです。命が欠如しているのです!ああ、愛する人よ、私たちが神の懲らしめと訓練の御手の下にあって、自分の労苦の成果、自分の働きの結果が何もわからず、私たちの感覚――私たちの魂――に関する限り、すべてが隠され、暗くされ、ぼやけていたとしても、それにもかかわらず、私たちによって、また私たちを通して――私たちがそれを見たり感じたりしていなくても――復活の力によって命が絶えず働く、ということもありえます。そういうこともありますが、私が述べているのはそういうことではありません。私が述べているのは霊的に死んだ状態にある、命の欠如のことです。何が問題なのでしょう?その答はカインとアベルにあります。それが示す解き明かしは、魂と霊の違いにあります。魂は悪いものではありませんが、それが支配することは別の問題です。もし魂に属するものが優位に立つなら、それは自己が優位に立つことです。そして、働きは私たち自身から出たものとなり、その力や活動は私たち自身からのものとなって、私たちの霊を通して働く神の力からではなくなってしまいます。


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